第36話 乞うて、恋う(2)


 赤銅色の肌の上で揺らぐ、その大きな砂色の眼は透き通って美しい、と思った。

 

 彼は「色持ち」ではないが、どんなものよりも色鮮やかな目をしているように思われた。無垢なのに、何処か意志の強さを感じさせる――タルカンはその瞳を見て、心付いた。

(そうか)

 じっと己の目を見つめる彼の目は真っすぐで、純粋。初めて彼と出会った時から、この目に惹かれていたのだ。この目にどうしようもなく愛おしいと感じていたのだ。

(今さら気が付くなど、私は本当に愚鈍だ)

 

 タルカンは少しだけ目を伏せて自嘲し、それからまた、岸辺に立つ少年を見据えた。

「こんなところで、どうしたんだ」

「どうした、じゃないよ。それはおれの台詞だ。水浴びする気温じゃないだろ?」

 ユルの口から、初めて冗談ジョークを聞いた気がする。いや、そもそも彼は無知ではないのだ。タルカンの前で馬鹿を演じていただけなのだ。そう思うと、気の利いた冗談ジョークのネタのひとつやふたつ、持っていたって可怪しくはない。

 タルカンが自分の馬鹿さ加減に嗤いを浮かべていると、ユルは苛立ちを露わにして声を張る。

「タルカン、こっちへ来てよ。それ以上は、危ない」

 

 何故、あの少年が己の心配をしてくれているような、そんな発言をしているのかタルカンには分らない。

 そもそも、なんで己を見付けたのかすら。あのシハーブという少年は近くにいないし、一人で歩いていたように思われるが。

 ぜえぜえと息を切らせているのを見るに、ユルは走っていたようにも思われる。そのことがいっそう、タルカンの中で「何故?」という言葉を生む。

 

(いや、ひとつしかないじゃないか)

 タルカンはふっとまた自分を嘲って嗤う。そして脳裏に浮かんだ言葉を声にした。

「……私に、恨み言でも言いに来たのか?それなら、幾らでも聞こう。お前にはその資格がある」

 すると、ユルが眼を吊り上げて怒りをいっそう激しく露わにした。

「恨み言?今さっきできたよ。妙な気を起こすなよ、楽になろうなんて思うなよ、このアンポンタン!そっちがこっちに来ないなら、おれが行ってやる」

 その発言に、タルカンは面食らった。そして彼はまさに有言実行。ざぶざぶと音を立てて河の中へ入ってくる。上背のあるタルカンと異なり、彼はすぐに腰元まで水に浸かってしまう。タルカンは蒼然として、急いで駆け寄った。

「お前は、馬鹿か!死ぬ気か!」

 一喝すると同時に、取り敢えず腰元を持って持ち上げる。これでは高い高いだ。


 だが、それを愉快に思ったのか、ユルはころころと笑った。

「おれに死ぬとか死なないとか……言うの、タルカンくらいだよ」

 

 それは曇りのない、心からの笑みだ。

 

 何故、そんな顔をしてくれるのか。睨み付け、恨み辛みを言うのでもなく、彼は幸せそうに笑ったのだ。その理由が思い当たらず、タルカンはユルを持ち上げたまま、茫然とする。

 すると突然にユルはタルカンの胸へ飛びこんだ。

 

「タルカン。おれ、タルカンが好きだ」

 

「は?」

 慌ててこの小さな少年が水に沈まぬよう、抱きかかえて受け止めながらも、矢張りタルカンは頭が付いていかない。だが、そんなタルカンもお構いなしな様子で、ユルはタルカンの頬に両手を添え、愛おしそうにうっとりと砂色の目を細める。

 

「どうしようもないくらいに、好きなんだ。恋しているんだ」

 

「お前は、馬鹿か?」

 タルカンは呆気に取られていた。

 一度は見捨て、その手で肉を削ぎ、その肉を草原の民たちへ分け与えていた男だぞ。いったいどうなれば、憎いでも苦手でもなく、恋している、だなんて言葉が吐けるのだ。わからない。この少年が何を考えているのかちっとも、理解できない。

 そんなぽかんとしたタルカンの表情を可笑しく思ったのか、またユルはころころと笑う。彼が白い歯を見せて笑うのは初めてかもしれない。その笑顔も愛らしく、美しい――そう思ってしまう己の厚かましさに、タルカンな歯噛みする。

 すると、そのタルカンの頬をぐいっと抓って、ユルが頬をぷうっと膨らませる。

「変な顔、しないでよ」

 そう言って、ユルはさらにタルカンの頬を強く圧し、むしろわざと変顔にさせる。変な顔をするな、なのかしろ、なのか。いったいどうしろと。タルカンが顔を顰めていると、ユルはくすくすと笑った。

 

「わかってるよ。おれは、馬鹿だ。知識があるとかないとかそんな話じゃなくて、おれはきっとオカシイんだ。でも、この気持ちに嘘は付けない。もう、気付いていないフリなんかしない。してやんない」

 

 にっと白い歯を見せて無邪気に笑う。その笑顔についほだされそうになるが、タルカンは気を強く持って、平静を装って問い掛ける。

「――いいのか?私なんかで」

「なんか、じゃないよ。タルカンだからいいんだ」

「しかし……」

「タルカンが思ったより弱っちいのはもうわかってるもん。それでもタルカンがいい」

 酷い言われ様だが、全てを受け止める、とこの少年は言っているのだ。己より小さくて細いのに、何たる度量。タルカンはこみ上げるものを感じ、せめてみっともなく泣くまいと唇を噛み締める。

 ユルはタルカンの頬にそっと頬釣りをして、柔らかな声でゆっくりと、言葉を続く。

 

「一緒に行こう。行けるところまで、行こう。何処か遠くへ。おれの知らない世界に」

 

 遠い、何処か。

 

 何処まで行けるだろうか?

 

 ユルと違って、有限で短い命だ。それでも、タルカンも行ってみたいと思った。今度は責任感などではなく、希望として。心からの願いとして。

 タルカンはユルを抱えたまま、ぎゅっと力強く抱きしめた。お互いの暖かな体温が伝わる。タルカンはそんな些細なことが堪らなく嬉しくて、仕方がない。ぐっと声が震えそうになるのを堪え、タルカンは応える。

 

「ああ」

 

 さわさわと、穏やかな風が二人の横を過ぎる。タルカンは優しく、柔らかな声で続ける。

 

「共に行こう。ここではない、遠い何処かへ。進める限り、共に歩もう」

 

 木造家屋の隙間から、清らかな黎明の光が差し込む。目映いばかりの白星しろほし白光びゃくこうが街を照らし上げ、世界を色鮮やかに、鮮明にする。その中には河辺に立つ二人もいた。

 二人の眼には、昏さはない。彼らの眼差しは、遠い、遠い西の大地へと向けられていた。



 その日、二人は西を目指して再出立した。

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