第35話 乞うて、恋う(1)


 すると矢庭に、世界が開けた。

 

 一面黒色こくしょくだった世界は色鮮やかな世界に変容し、無音で無味だった世界は賑やかで様々な匂いのする世界へ変貌する。

 ユルは小さな個室にいた。眼の前には、腕を組み、木の壁に寄りかかって立つヤトの姿がある。それはシハーブと名乗った時の姿ではなく、何時も顔を合わせている時と同じような風貌をしているけれど、白目もあって肌も血の通った白になっている。ここは夜の地ではない。生きた人々の暮らす場所だ。

 

 ヤトはふっと口端を持ち上げて笑う。

「答え、出たじゃないですか」

 

「うん。おれ、もう逃げない」

 ユルはゆっくりと頷く。ひとしきり泣いたからかもしれないが、心做しかすっきりとした心持ちである。

 ヤトは少しだけ懸念に思ったのか、一瞬眉を顰めて、言葉を差す。

「――それは構いませんが、ゆめゆめお忘れなきよう」

 今ならわかる。彼は彼なりに心配してこの言葉を掛けているのだと。彼だって誰かに恋をして、その相手と離れる経験をしたのだ。きっとそれは辛くて、苦しくて、痛いこと。きっとユルもまた同じように泣いて、その別れを嘆くだろう。でも、それでも。

 ユルは真っ直ぐにヤトを見据えたまま、またかぶりを縦に振る。

 

「解ってる。おれがどんなに厭だと思っても、タルカンとは進む時間も違うし、やっぱりタルカンとは別の何かなんだ」

 

 そしてふと、格子窓の外を見る。白星の残光が瞬いて、夜の帳を彩っている。まるで、昊の暖かさを忘れられず居残ったみたいだ。そう思うと、夜の暗い昊も愛おしく思える。

 ユルはふっと微笑んで、噛み締めるように言葉を鳴らす。

 

「でも、赦される限りは一緒にいたい。行けるところまでは進みたい。それほどにおれは彼に乞うて、恋うているんだ」

 

「そうですか。ならば、好きになさい。私はいつでも、貴方を待ってますよ」

 ヤトは降参とばかりに手を広げて上げる。それでと待つというのだから、彼も十分に頑固だ。ユルはにっと笑って、

「タルカンを説得して、何十年と待たせてやるね」

「生意気なクソガキめ」

 ヤトは顔を引き攣らせ、悪態付く。けれども、何処か安堵しているようにも見えた。ユルは「へへ」と笑うと、急いで入口の扉へ走る。

 

「お待ちなさい」

 

 不意にヤトに呼び止められ、ユルは足を止める。小首を傾げて「何?」と問うと、ヤトはやおら一歩歩み寄り、静かに言葉を続く。

「貴方に、名を授けます。夜の民ザラームとしての名です。これは決して、さっさと諦めろ、という意味じゃありません。いつか終わりが訪れたとき、この名を頼りに、私たちを見つけなさい」

 ユルはきょとんとした。ヤトの細長い眼差しは、ユルの大好きな暖かさがある。ヤトはそっとユルの頭を撫でると、柔らかな声で言葉を落とした。

 

悠流ユウリュウ。何処までも流れる風のように、水のようにおなりなさい」

 

 悠流ユウリュウ。タルカンの授けた「ユル」の名の音もできるだけ残した、ヤトなりの優しさと願いを籠めた名だ。

 

 ユルはヤトへ向き直り、にっこりと微笑み返す。

「ありがとう、夜刀ヤト悠流ユウリュウ――いい、名前だ」

「ほら、もうお行きなさい」

 ヤトは少し照れくさそうに頬を赤らめ、そっぽを向く。ユルはふふ、と笑って踵を返す。

「行ってきます」

 扉を開け、ユルは軽い足取りでタルカンの元へ走った。


 






 タルカンはひとり、未だ室内にいた。酒でもあおりたい気分だが、どうにもそれすら億劫で、立ち上がれずにいたのだ。

 もはや、独りだ。

 故郷も同胞も捨てて、この土地へ来た。生きる意味を失うばかりか、帰ることも進むことも叶わなくなった。

 

 タルカンはハッと己を嘲るように嗤い、顔を手で覆う。

(身投げでもするか)

 

 このままのうのうと生き延びていたところで、誰も喜ばないし、誰も悲しまない。姿形すがたかたちのある透明人間だ。

 ゆっくりと立ち上がり、タルカンは後ろに編んだ鳶色の髪を解き、格子窓のそばへ寄った。昊は未だ夜の帳で白星の輝きを隠している。

(いっそこのまま、私も暗闇に溶けて消えてしまえたら)

 ふと、タルカンは思考を留めた。

 きっと、あの少年は何度もこんな思いに苛まれたのだろう。けれども脆い己と異なり、彼はどんなに願っても終わることを赦されず苦しんだに違いない。

 そのことを思うと、いっそう胸を圧し潰されるような気分になる。 

(本当に、私は最低だ)

 黒装束たちやノランバートルたちを全くもって責められる立場でない。

 

「……少し、出るか」

 タルカンは独り言ちた。


 真暗まくらな外を見ていると、何となくあの闇の中へ身を投じたいようなそんな衝動に駆られたのだ。タルカンはとくに防寒具も持たず、へやを出て、急斜な階段を下って宿を出た。

 外へ出ると、昊は高く小さな白い星星が真昼の星の残光で精いっぱい瞬いている。それは弱々しい幽光ゆうこうだ。タルカンは小さく白い吐息を吐き、ゆっくりと足を進める。この辺りは昼と夜の寒暖差が激しい――けれども、タルカンは寒さも忘れてふらふらと足を進めた。

(河か)

 ずっと路を進んだ先。大通りを抜けた先の、薄闇の中でひっそりと流れる大河に、タルカンは足を止める。水面が夜空を映して、まるで地上に昊の星星が瞬いているようだ。時おり風がその水面をゆらゆらと揺らして、その星の輝きを歪ませて鈍らせる。それがいっそう、星星を儚く感じさせる。

 

 タルカンはその水面を暫くじっと見詰めていたが、突然に何となく、その水の中へに足を晒してみた。冷たくて、気持ちがいい。

 気が付けばタルカンは無意識のうちに、その足を進めていた。ざぶざぶと水が音を立てて、脚は足首から脹脛ふくらはぎの真下まで浸されたかと思うと、あっという間に膝上まで水の中に沈んでいた。

(遠い何処か、か)

 このままこの真闇の水底へ身を委ねれば、あの少年が言っていた、遠い何処かへ行けるのではないか。何度もあの少年は言っていた。一人だけで行くなと。

(すまない。赦せ、とは言わない)

 そう内心で呟き、タルカンはそっと目蓋を下ろして、さらに暗い帳を下ろす。


「タルカン、行かないで……!」


 その声に、タルカンは咄嗟に足を止め、目を見開いた。ここにあるはずのない、まだ幼さの残る少年の声。茫然としながらも、タルカンは振り返り、その声の主を見る。

「ユル……?」

 そこには、赤銅色の肌をした小柄な少年の姿があった。

 

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