第34話 その感情の名は(2)


「とにかく」

 

 こほん、と咳払いしてヤトが仕切り直した。ユルはきょときょとと目を瞬かせて、そんな少し気恥ずかしそうにしているヤトを見上げた。

 ヤトはいつもの夜を宿した細い目をユルへ向けて、言葉を続ける。

 

「他者に思い入れたことのある身として、忘れろ、今すぐ諦めろとは言いません」

 

「どうして?」

「誰にとやかく言われたからと言って、折り合いのつくものではないからです。自分で向き合って、自分で納得しなければずっと尾を引きます」

「そうなんだ……」

 ユルはしゅんとした。離れていれば忘れられるなら、それでもいいと思った。これ以上辛いのも苦しいのも御免だ。全てを忘れ去りたい。なのに、それが叶わないとは。世界とは何処まで残酷なのだ。無限の時を与えるだけでなく、永久の苦痛をも与えるとは。

 その過酷な事実にユルは顔を歪め、唇を噛み締める。ヤトはそんなユルをじっと見据えて、問い掛ける。

 

「貴方は、どうしたいんですか?」

 

「どうしたい……て?」

「彼とまた、やり直したいんですか?それともきっぱり捨て去りたい?それともいっそぶん殴りたいですか?」

 ユルは大きく砂色のまなこを揺らした。どうなりたいか。その答えを放棄して、ここにある。

 本当はずっとそばにいたかった。

 あの穏やかな橄欖石ペリドットに見詰められて、優しい言葉をずっと聞いていたかった。

 

 ユルはきゅっと己の胸ぐらを掴んで、言葉を押し鳴らす。

 

「……素直に言えば、離れるのは辛い。やっぱり、あの時の優しい目も言葉も忘れられない。――でも」


 でも、そのためには己を押し殺して、たくさんの我慢をしなければならなかった。

 そうしたら、疲れてしまって、ずっと黙っていようと思っていた本心を全て吐き出してしまった。もはや、以前には戻れぬほどに全てをさらけ出してしまった。


 ユルは悲鳴を上げるように、言葉を吐く。吐いて吐いて、それでも吐ききれない。


「どうして、もう無理なんだって切り捨てられないんだろう。どうして、いつまでもしがみついてしまうんだろう。こんなことをしたって無駄なのに。意味がないのに」


 分らない。判らない。解らない。己がわからない。全てがわからない。どんなにそれを言葉にしても、己がどうしてそうなのか、答えに届かない。

 ぜえぜえと荒く呼吸して興奮気味なユルの背をそっと撫でて、ヤトは静かに優しく言葉を落とす。

「貴方が抱いているのが、そういう、理屈の通らない感情だからですよ」

 ユルはまたじんわりと胸が熱くなり、涙がこみ上げてくるのを感じる。ではその理屈の通らない感情とは何なのか。ユルはヤトに詰め寄って、その疑問を打つける。


「これは何と言う感情なの?彼を思うと、心の臓を抜き取られるよりずっと、ずっと痛いんだ。張り裂けそうなほどに息苦しいんだ。忘れようとしてもずっと彼の顔が、彼の声が思い浮かんでそうさせてくれないんだ。どうしようもなく、彼のことばかりを考えて、そばにいて欲しいと求めてしまうんだ。辛い。辛いよ」


 嗚咽が漏れる。ユルは己の胸を掻き毟って、どうしようもない苦しさに藻掻く。ヤトはそのユルの手を押し留め、ゆっくりと言い聞かせるように言葉を鳴らす。

 


「それは――恋、と言うんですよ」

 


「恋?」

「特定の誰かに強く惹かれ、欲することです。貴方はその慕う相手を無理矢理なかったことにしようとして――それでも相手を思い焦がれてしまい、その相反する気持ちが打つかりあって、苦しんでいるのでしょう」

「おれは、タルカンに恋をしているの?」

 ユルはまたくしゃくしゃになった顔で、ヤトを見上げる。ヤトはその細長い目を顰め、その涙の蓄えたユルの目元を指で拭う。

「きっと、そうなんでしょうね」

 初めて、ユルは今までの感情の名を知った。恋。ユルはあの橄欖石ペリドットの三白眼を持つ男に恋い焦がれていたのだ。

 否。今もなお、恋い慕っているのだ。どうしようもないほどに。それは上っ面でどんなに否定しても、掻き消せないほどに、強く、強く惹かれているのだ。

 

 では、どうすればいい。ユルはその問いをまた、口にする。

「おれは、どうしたらいい?どうしたら、この気持ちは収まるの?」

 

 だが、ヤトはただ首を横に振り、そして言葉を添える。

「それは、貴方にしか分らないことですよ。私は答えを与えることができない。言ったでしょう。己で向き合い、己で納得せねばならないと」

 ユルはきゅっと手を握り合わせた。

 自分で見詰め、自分で結論を出す。これほどにむずかしいことはない。

 

(おれはどうしたらいいの?――どうしたいの?)

 

 ユルは眼を伏せ、思案する。

 ずっと暗く、寒い場所にいた。痛くて苦しくて、終わりのない地獄に心も捨て、抗うのも止めた。

 初めは、逃げてやろうとしたこともある。首を噛みちぎり、一人で何処か暖かな場所を目指そうとした。けれども、それは何年も肉を穿たれ、抉られ、削がれるうちに無くなった。すべてがどうでも良くなった。

 何もかもが疲れて、面倒になった。

 

 けれども。

 

 あの日、いつもがいつも通りじゃなくなったあの日。

 そこにはタルカンがいた。穏やかな緑色りょくしょくの宝石をもっと柔らかに細めて笑う、彼がいた。

 彼はずっと望んでいた言葉をくれた。


 ――お前は人間だ。たまたまそういう体質をした、人間だ


 本当はタルカンと違う存在だったけれど、それでも初めて一人として見付けてくれたような気がして、胸がぽかぽかした。きっとあの日から、恋をしていたんだろう。

 一度裏切られて、捨てられても、あの優しさが、あたたかさが捨てられなくて、固執してしがみついた。だから、またタルカンが微笑みかけて、名を呼んでくれた時は、嬉しくて堪らなかった。もう、この一瞬で時が止まり、終わってしまったらいいのにと切に願った。


 突然に一つの願望がユルの胸を打つ。


(行けるところまで、行きたい)

 

 彼と共にありたい。共に、遠い何処かへ行きたい。赦される限り共に、知らない世界へ行って、見て、聞いて、感じたい。

 

 この望みはきっと近い将来、またユルを絶望のどん底へ叩き落とすことだろう。何を選択したところできっと、先に逝くのもタルカンだし、そして本当の意味で終わるのはタルカンだけだ。結局、独り残されるのは決まっているのだ。


 でも。


 それでも、共にいたいという気持ちは抑えられない。諦められない。

 ユルはきゅっと唇を噛み締め――その大きな砂色の眼でしっかりとヤトを見据えて、答えを言葉にした。

 

「おれ、タルカンといたい。赦される限り、ずっと一緒にいたい」

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