終章
第33話 その感情の名は(1)
隣の
「ようやく、来ましたか」
ユルはぐずぐずと鼻をすすって、小さく頭を縦に振る。顔がぐしゃぐしゃだ。涙が乾いて目の下は突っ張ってるし、目も腫れ、鼻の頭までも真っ赤でどうしようもない。
ヤトは呆れたように嘆息すると、こちらへ来なさい、と言って隣を指差した。ユルは素直に頷いて、ヤトの隣へ腰掛けた。
「まったく、全く鎖を断ち切らず、引きずったまま歩いてくるとは」
「ヤトは比喩が多くて何言ってるのかわかんない」
ユルはべそべそと泣きながら、ぼやく。ヤトの小言は遠回し過ぎて何を伝えたいのかさっぱり理解できない。ヤトは頭を抱えて溜め息を落とし、それから吐き捨てる。
「はいはい。ようは、未練たらたらでみっともないと言ってるんです」
「うう……だって……」
ずずっと鼻水をすする。また思い出して泣きそうになる。ヤトの指摘通り、完全にタルカンを捨ててここへ来たのではない。辛くて苦しくて、未だそばにいたいという思いを押し殺して逃げてきたのだ。
ヤトは参ったな、とばかりに長い
「まあ、わからないこともないですよ」
その発言に、ユルは目を瞬かせる。まさか、ヤトが元気づけようとするとは思っていなかったし、そもそもヤトが共感を示すとは思っていなかった。ユルがきょとんとしていると、ヤトは気不味そうに頬を掻きそっぽを向く。
「私にも、かつて――というほど前ではないですが、好いた相手がいました」
「ヤトにそんなひとがいたの?てっきりそういうことには無関係だと思ってた」
「貴方、人を何だと思ってるんですか」
くわっとヤトが食らいつく。まるで人間みたいだ。涙も引っ込んで、ユルは苦笑交じりに答える。
「小五月蠅いわりによくわかんないこと言ってる変な人」
「殴りますよ?」
ヤトが拳を握って見せる。ユルは「えー?」と言って、一応、距離を取っておこうとばかりに少しだけ横に避ける。
なおもヤトは呆れの様相を持って言葉を続く。
「
「その
何となく聞き流していたのだが、矢張り気になる。ユルはじっとヤトを見上げた。ヤトは暫くどう答えるべきかと悩む素振りをし、そしてようやく口を開いた。
「まあ……ざっくり言えば、死んで解き放たれた魂の集合体……みたいなものですよ。実を言えば、私にもよくわかりません」
「わかんないの?」
自分のことなのに?ユルは小首を傾いぐ。すると、ヤトは思いっきり眉根を寄せて、言い返す。
「人間に聞いてご覧なさい。人間って何ですか、て。哲学的な答えだけが返ってきて、確かな答えは返ってきませんよ」
「……ヤトは魂の集合体なの?」
魂というのがイマイチどんな形をしたものなのか分らない。そもそも、その概念を知らない。だが、集合体とはきっと、何かが集まったものなのであろうことは想像できる。そして――ヤトはとても何かが集まってできてるようには見えない。
ユルの素朴な疑問に、ヤトは答える。
「その一部から取り出された、「個」です。私は
「ふうん……じゃあ、おれもヤトみたいな感じなの?」
ヤトはユルと同じ時と
そしてその予想は正しいようで、ヤトはこくりと頭を縦に振り、言葉を継ぐ。
「そうですね。それも一人で勝手に
ヤトのその言い草に、ユルはムッとする。
「好きでそうなったんじゃない」
「知ってますよ。私も初めて見つけた時は驚かされましたけど――まあ、これはちょうどいいと思ったので声を掛けたんです」
「ちょうどいい?」
ユルはまた、小首を傾いぐ。大きな砂色の目を瞬かせて、上目で見る。ヤトは片胡座を搔き、その足を支えに頬杖を付く。
「次の「繋ぎ」――即ち死と生の
「弟子が師匠を守るの?」
「そうすることで、学ぶんですよ。色々と」
「ふうん……」
「私だってつい最近まではその弟子の立場だったんですから」
「え、それでそんなにエラそうなの?」
思わず大きな声で言ってしまう。だがどうしても、思わずにはいられない。とても、誰かに従っている者とは思えない、と。ヤトは何時も上から目線で、人を小馬鹿にして掛かっているように思われる。
ヤトは青筋を立て、また拳を握る。
「殴りますよ?」
ユルはむうっとしながらも引き下がる。痛みに慣れてるとは言え、無駄に殴られたくはない。
ヤトもまた、無駄に体力を消耗したくないのか、拳を下ろすと、何処までも黒い昊を見上げて、静かに言葉を落とした。
「とにかく、私だって
それは、何処か哀しさのある声だ。ユルは初めて聞く、ヤトの弱々しい声に胸がきゅっと締め付けられるような感じがした。それ以上に深く触れてはならないような気もした。けれども、どうしても聞きたかった。
「その相手は誰だったの?」
ヤトは苦しげに顔を曇らせた。夜を留めた細い目をきっそう細め、静かに、そして吐息を零すように、言葉を鳴らす。
「先代の「繋ぎ」ですよ――もう、ここにはいませんけどね。少し前に、
その相手を思い出したのかヤトはきゅっと己の手を握り、顔を歪める。何となく泣いているようにも見えた。まるで自分のことのように悲しく思えて、ユルはそっとヤトの手に己の手を重ねる。
「――きっと、凄くいい人だったんだね」
「いえ、クズでした」
きっぱりと言い切るヤト。さらに愚痴を零すように、
「愉しさと美しさばかりが大好きな、変態でした。最期までそのことしか頭にない、最低野郎でした」
でもそれは訴えているようにも思われた。どうしてそばにいてくれなかったのか、と。だからユルは黙して、ただ静かに、その言葉に耳を傾けて聞いていた。
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