第32話 絶望と崩壊(2)
いつからだろうか。
己の無力さに、己の弱さに、打ちひしがれるようになったのは。
別に昔から己を強い、己は素晴らしいなんて考えたことはない。父親にも母親にも先代宗主にだって敵わないし、敵おうとも思わなかった。
だって、家族とはそういうものだし、主従もそういうものだった。父母は重んじ、主は敬う。ずっとそうあれと言われ、そしてそうだと思ってきた。だから決して、己が優れているとは特段感じていなかった。
でもここまで、打たれ弱いとは思っていなかった。人々は全てが同一とは考えていたが、戦士として敵と見なされた者たちは命令どおり斬り捨てて来た。哀れだとは思ったが、苦しいとは思わなかった。
だがどうだ。
あの少年に出会ってからは、同胞とそうでないものの線引が難しく。命令を命令として受け取らなくなっていた。何故かは解らない。あの少年を前にすると、まるで意思が定まらない。
それでもあの
けれども、叶わなかった。
言い聞かせると言い聞かせたぶんだけ、心の奥が挫けるような、ずんと重しが伸し掛かるような感覚に囚われた。
だから、これが終わったら、彼を救えばいいと言い聞かせた。だが――それでも、その胸の苦しさは晴れなかった。寧ろいっそう深く、昏く押し寄せてきた。
――私はなんて愚行を。なんてことを酷いことをしたんだ。
血の海の中で肉が削ぎ落とされて動かなくなった少年を見る都度に、首を絞められるような苦しさに藻掻いた。それを掻き消そうと感情を押し留めても、夜な夜な夢であの少年に責め立てられて、魘された。夜が怖くなった。あの少年の目を見るのが恐ろしくなった。
雨が降った時、思った。
残りの人生を彼のために、この幼くて弱くて哀れな少年のために使おうと。元々誓っていたことだが――あの雨がいっそう、その決心を固くさせた。
だというのに、どういうことか。
無様にも傷を負い、飢えに負け、黒装束や草原の同胞たちと同じことを、あの少年に課したのだ。血肉を自ら差し出させて、彼を家畜に仕立て上げたのだ。
なんて滑稽。なんて愚か。
ダメだ。
それじゃあ、ダメだ。
私はいつまでも懺悔できない。赦されない。――私の生きる意味が失われる。私の存在価値が無意味になる。
気がつけばカッとなって、手を上げてしまっていた。
止めてくれ。
これ以上、私を惨めにしないでくれ、と。
そう意識の端で叫ぶと、私はその少年の頬を張り、殴りつけ、蹴りつけていた。口癖のように、私が守ると、私に守らせてくれと言い聞かせていた。
――私は益々愚行を重ね、取り返しの付かないところまで来てしまった。
少年を恐怖させてしまっていた。
少年を萎縮させてしまっていた。
(私は、何をしていたんだ)
あのシハーブとかいう若者の言うとおりだ。己は己の望みのために、願いのために、あの少年を縛り、思い通りにしようとした。
相応しくない。
共に進む相手として、己は相応しくない。これ以上、共にいてはいけない。これ以上共にいては、あの少年があまりにも不憫だ。望みをちらつかせているぶん、地下牢に閉じ込めているよりもずっとずっと、残酷だ。
突然に押し黙ってしまったタルカンを前に、ユルは憔悴して、もう何も言えなかった。
(疲れた)
もう、考えるのも、考えないのも疲れた。
いったい何なのだと言うのだ。己は何を追い求め、そのために労苦を費やし、そして結局何を得られたと言うのだ。
寒く冷たい永遠の中に、暖かで穏やかな一瞬を乞い、それゆえに常に恐れ怯えて。あまりに愚かしすぎる。割に合わない。
ユルはふと、ぽつりと独り言つ。
「おれたち――出会わないほうがよかったのかな」
出会わなければ。
あの柔らかな眼差しも、希望を持たせるような言葉もなければきっと、辛いとは、悲しいとは感じなかっただろう。何故、あの時己は見付けられてしまったのか。
ユルは胸の奥からこみ上げるものを感じて、顔を手で覆った。涙が止め処無く溢れて、止まらない。嗚咽も漏れて、言葉が形にならない。全ての思いがぐしゃぐしゃになって混ざり合って、ワケがわからなくなる。
その
「――ああ。私などに見つけられないほうが、きっと幸せだっただろう」
その低く、悲しげな声が、ユルの胸をチクリと刺す。肉を削がれるより、ずっと痛くて虚しい。ユル涙がいっそう溢れ出すのを感じた。絶え間なく涙が押し寄せて、息をするのも苦しくて、顔を覆っていた手で己の首を掴んで強く締めた。
(惨めだ)
人間たちのように、ここで全てが終わりにできたらどんなに気が楽だっただろうか。
けれども己は不死。どんなに首を強く締めても爪を立てて掻いても、何もならない。たとえ刃をあてがって首を落としても、剣で胸を貫いて心の臓を引きずり出しても、終わらない。終われない。
「う……うああ……」
ユルは首から手を離し、上空を仰ぎ声を上げて哭いた。
こんなにも大きな声で泣くのは初めてで、歯止めが効かない。タルカンはいつものように抱きしめてはくれない。ただただ、ユルの前で俯いて、沈黙を貫いている。
(あの時に、戻りたい)
タルカンやその妹ツェツェグ、母親のホンゴルズルたちと囲った食卓のひとときに、戻れたらどんなによいか。あの穏やかな一瞬だけが続けばいいのに――ユルは泣きじゃくり、脳裏で巡る幸せだったほんの僅かな時を、その刹那を思い起こす。
きっと、もうあの時のような関係には戻れない。
どんなに以前のように振る舞っても、きっともう二度と戻れない。
ふつり、とユルは泣くのを止めた。嘆くのも止めた。ふらふらと立ち上がり、膝を付いたまま顔を上げないタルカンを見下ろして、静かに言い落す。
「おれ、もう行くね」
さようなら。その言葉は出なかった。ユルは唇を噛み締め、重い足を無理矢理に動かして、その場を離れる。入口の扉を押し開けて、一瞬思い留まりそうにもなったが、
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