第31話 絶望と崩壊(1)


 タルカンは扉を閉めてシハーブなる少年を追い払おうとした。


「……と!旦那、いくら何でも、酷くないか?」

 だが、シハーブはその扉を手で押し留め、閉まらないようにする。細身のわりに力がある。タルカンはいっそう顔を険しくして、

「何の用事ようだ、小僧わっぱ

 と低く言い放つ。

 シハーブはというと、相変わらずの余裕そうな妖しい笑みを浮かべて嗤う。

「用事があるのはあんただよ。心配すんなって」

「私に?」


 タルカンは顔を顰めた。数時間前に顔を合わせた程度の関係だというのに、何の話があるのだというのだ。タルカンが訝り、警戒していると、シハーブはその猫のような砂色の目を冷ややかにして、静かな声で言い放つ。

「静観するつもりだったんだけどさ。さすがに度が過ぎてるし、お子様にゃちょっとばかし難しい状況かと思って。水を差しに来た」

「は?どういうことだ」

「とにかく、中に入れちゃくれないかな。目立つのは、厭だろう?」

 シハーブがちらり、と廊下へ視線を向けた。その視線を辿れば、どうしたのだろうかと室から出て様子を確認している他の宿泊客の姿がちらほらとある。

 追い返したいところだったが、大声で何か妙なことを喚かれても困るので、タルカンは渋々と、その赤銅色の肌をした美しい少年を室内へいざなった。


 その少年は室内に入るなりユルの前へ歩き寄り、ユルの茫然自失した顔を見て、呆れたように声を上げた。

「あーあ。これは酷い」

 その言葉に、タルカンは眉間の皺を増やす。いったい何を言いたいのか、さっぱりわからない。だが、タルカンに何か説明するのでもなく、シハーブはユルの頭をポンポン叩いて独り言のように言葉を鳴らす。

「元々、夜の民ザラームてのはそれがたとえうつわ持ちだったとしても、「個」に弱いんだ。それを未成熟のうちにまあ、ここまで叩きのめしちゃって」


 夜の民ザラーム。それは西の言葉で、白星の恩恵を受けない者たちのことで、死者の集まりだという一説もある。タルカンは直にその者らに会ったことはないが、草原の民を含めた人間たちに忌み嫌われていることだけは識っている。


 だが――それとユルに何の関係があるというのだ。それに、「うつわ持ち」とは何だ。この者はいったい――我知らず、タルカンはその疑問を口にした。

「お前、何者だ?」

「あんたのお人形さんと同じ時を歩み、同じことわりを生きる者、さ」

 つまりは、彼もまた不老不死の体質を持つ人間ということ。だが、タルカンはそんな事実よりも、シハーブの言い振りが癪に障った。

「は?人形?何をふざけたことを」

 彼は大事なひとだ。己が守るべき人間で、己の生きる意味。人形なんかじゃない。


 すると、シハーブがハッと鼻で嗤った。

「無自覚が一番怖いえ」


 突然に口調が変わり、タルカンは眉を顰める。シハーブはくつくつと嗤い、そしてふと、真顔になる。

「いいですか。この子は、お前のそのクズで弱い心を慰めるための道具じゃあないんですよ。守る?生きる理由?そんな言葉を言い並べて陶酔とうすいして、一人納得してなんて愚かなのでしょうか。独りよがりもいいところです。つまるところ、過ちに対して都合のいい言い訳をして誤魔化したいだけなんですよ。そしてそのために児童こどもを振り回している――」

「黙れ!」

 シハーブの言葉を遮るようにタルカンは声を張った。それはが鳴り響くほどの大声で、かつて出したことのない程に荒げられた声だった。

 だがそんなことを意に留める程、タルカンは余裕がない。はらわたの煮えくり返りそうなほどの、ふつふつと沸き起こる怒りがすべての思考を真っ白にする。タルカンは己へ言い聞かすように、言葉を吐く。

「部外者のお前に何の関係がある?私は過ちを償うためにここへ在るんだ。決して、誤魔化してなど、いない」

「図星のくせに未だしらばっくれるんですか?みっともない」

 気がつけば、タルカンの拳がシハーブの頬を殴り付けていた。この少年は敢えて、その拳を受けているようにも思われた。そのことがいっそうタルカンを惨めにした。

「出て行け」

 ずいっと扉を指差して、タルカンは眼の前の少年を睨め付ける。シハーブは赤くなった頬に触れることもなく、相変わらず飄々と妖しい笑みを溢して、静かに言葉を落とした。

『いつでも、縛る者から逃れて来なさい』


 それは西方の言葉で、ユルヘ差し向けられたものである。ユルは言葉を知らないはずなのに――タルカンはユルヘ視線を移し、瞠目した。

『……ひとりにして』

 静かな、小さな一言。だが、確実にユルの口から発せられた西方の言葉である。


 ふっと口端を持ち上げて白い歯を見せて嗤うと、シハーブはひらりと扉の前へ足を運び――おもむろに振り向く。

「いつまでも固執していないで、さっさとそんな鎖、断ち切るんだね」

 そう言って、シハーブは室を後にした。

 残されたタルカンとユルは、気不味い沈黙の中にいた。ユルは座り込んだまま、項垂れ、何も言葉を発さない。


 タルカンは鳶色の髪を掻き毟ると、小さく嘆息し、ユルの前へ片膝を立てて屈んだ。

「あの者とは顔見知りだったのか?」

 ユルは暫く沈黙したのち、ゆっくりと頭を縦に振る。相変わらず、言葉を話してはくれない。そのことに僅かの苛立つが、堪える。最近はつい、手が出てしまうことがある。いつもその後は後悔ばかりだ。何故、己はこうも駄目なのか。不甲斐ないのか。

 タルカンは歯噛みし、けれども出来るだけ努めて穏やかな声を鳴らした。

「何故、何も言ってくれなかったんだ」

 何かあれば、必ず救うと決めたのに。何時の間にか、この幼い少年は一人で何かを抱え込んであるらしい――すると、ユルがよろよろと顔を上げた。

「だって」

 それはか細い声だ。ユルは大きな砂色の目を潤ませて、声を押し鳴らす。

「言ったらきっと、嫌われてしまう」

「そんなことない。私は決して――」


「嘘だ!」


 ユルのその悲痛な声にタルカンは驚いて閉口した。

「おれが間違ったことを言うと、タルカンは冷たくなる。怖いんだ。また、前みたく捨てられるかもしれない、て思うと」

 怖いんだ。ユルはそう言って、泣きじゃくり始めた。タルカンはそのつもりは全然なかった。苛立っていたのは、自分があまりにも無力だからだ。そのはずだ――タルカンは茫然として言葉を失った。

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