第30話 望みを満たす家畜(2)

 その瞬間、ユルの意識は木造の個室に戻された。

 

 格子窓の外を見れば、すっかり夜の帳が下ろされている。思ったよりは時間が経過していたらしい。

 時間感覚まで失って、行ったり来たりは突然に行われる。不思議なものだ。あの黒い砂原はいったい何処にあるのかと時おり考えさせられる。

 

(大丈夫。おれは、大丈夫)

 何を大丈夫だと言い聞かせているのかすら、自分で分かっていない。ユルは膝を抱えて蹲った。

 

「どうした?何処か具合が悪いのか?」


 いつの間にか、戻ってきていたらしい。顔を上げれば、タルカンが屈んで己の顔をじっと覗き込んでいる。ユルは努めて微笑し、言葉を返す。

「ううん。大丈夫だよ。知っているでしょう。おれ、風邪もひけないんだよ」

 引かないんじゃない。引けないのだ。誤って心の内を言葉にして、ユルは咄嗟に口を覆う。

 だがタルカンには聞こえていなかったのか、それとも敢えて聞き流したのか、タルカンは気に留める素振りもなく図多袋を下ろす。

「握り飯を買ってきた。一緒に食おう」

「あ、うん」

 ユルはたじろぎながらも、頭を縦に振る。何もないなら、それでいい。

 握り飯を受け取ると、ユルはそれを頬張った。初めての味だ。そもそも米というもの自体を初めて見た。タルカンたちが食していたのは大麦の粥であったし、途中からは絶食していたが道中はパンと干し肉だった。

 

 タルカンはその白い握り飯を飲み込むと、革の水袋を傾けて喉を潤し、やおらユルへ視線を向けて言った。

「少し宿泊の期間が延びるかもしれない」

「どうしたの?」

「少し、な。何、心配するな。私がどうにかする」

 ユルは何となく察した。きっと金だ。

 天幕の中から持ち出したとは言え、そんなに多量のものを持ち出す余裕はなかった。これまでは人里に下りなかったので金を使う機会はなかったが、今は違う。

 しっかり旅の支度をするとなると、金が要る。今泊っている宿賃も同時に発生するので、さらに金が要る。

 ユルはじっと、その疲弊した緑色の三白眼を見詰め、つい口を開く。

「大丈夫?無理してない?おれに何か――」

 おれに何かできることはないか。そう、尋ねてしまいそうになり、ユルは咄嗟に口を噤んだ。

 再度タルカンの顔を見ると、矢張り表情を険しくして、宝石を冷ややかにしてユルを見下ろしている。ユルはその目に恐怖し、項垂れて詫びの言葉を落とした。

「ごめんなさい」

「大丈夫、気にするな」

 優しさのある声だ。タルカンはその大きな手でユルの頭を撫で、長い白髪を梳いた。

 ユルは俯いて蒼白顔をしたまま、小さく頷いた。

 

 ――意思を捨て、縛られて。それでは、家畜同然だ

 

 頭の淵で、ヤトの声が反復される。そんなことない。彼は、心配して言ってくれているんだ。ユルは何度も何度も内心で否定し、俯瞰して現実を見ようとする自分の意志を打ち消そうとする。

 

 ――本当に、それでいいのか?

 ――このまま、ただのお荷物でいいのか?

 

(五月蠅い)

 五月蠅い、五月蠅い、五月蠅い。

 若し、本心をさらけ出して、捨てられてしまったら。二人があの日の関係に戻ってしまったら。それが怖い。堪らなく恐ろしい。

「どうした、ユル?」

「そう昏い顔をするな。私が必ずそばにいて、お前は私が必ず守る。だから何の不安も感じることはない」

 それは旅に出てからの、彼の口癖のようなものだ。ユルを守る。そのために自分はあると。

 それは日を重ねるごとに強まって、ユルの不安になるだろう全てのことを彼一人が担おうとするようになり、そしてユルがそのことを口にするのを厭った。

 ユルがタルカンを守ろうとすると、酷く感情を高ぶらせて、時にはユルの頬を張り、拳を振るった。

 彼はつまり――ユルには、何もしてほしくないのだ。全ての思考を彼へ委ね、ただ寄り添い、ただにこにこ笑っていてほしいのだ。

 

 ――それって、あの羊たちと、同じじゃない?

 

 タルカンの家族たちが育てていた羊たち。彼らはただタルカンの家族が導く通りに草をはみ、毛を刈られ、子を成すように促される。

 それは、地下室や襤褸い天幕でただただ肉を削がれていたころのユルと、あの名無しの生き餌人だった頃と同じ在り方だ。

 

 ――お前は、混ざり得ない

 ――お前は、永遠に何者にもなり得ない

 

 あの夢の中の人影たちの言葉が頭の中で鳴り響く。そんなこと、ない。ユルは屈みこみ、耳を塞ぐ。タルカンがどうした、と必死に声を掛けてくれているが、ユルの耳には届かない。

 ずっと気づかない振りをして、思考の端へ追いやっていた疑念が頭の中で何度も渦巻いて木霊する。

 ユルはずっと、独りではない暖かな場所にいたいと願った。心の奥底でずっと願って、けれども叶わないものなのだと諦めて、全ての感覚を閉ざした。

 けれども彼は言ってくれた。自分は人間なのだと。

 そして彼は穏やかで優しい眼差しで、己を独りではないのだと安堵させてくれた。

 だからきっと、己の願いを叶えてくれるのは、この橄欖石の目を持つ男のそばなんだろうと信じて止まなかった。

 でも。

 気が付けば、ずっとあの冷たい目に怯えて、そのことばかりで、いつもいつも、恐ろしくて堪らない。心なんて、休まらない。

 

(あれ、おれ……)

 

 なんでこんなところにいるんだろう。

 ユルはふと、意識を留めた。ずしりとした絶望が、耳元で囁いた。

 

 自分は、家畜だ。

 彼の望みを満たすためにそばへ留め置かれた、生き餌人いきえびとだ。

 

(それって、おれである必要、ある?)

 

 彼の使命感を満たすのはきっと、哀れな子供なら誰でもいいのではないか。

 だんだんに、世界が昏く、寒く、無意味なものにユルは感じて行く。結局、自分はあの黒い人影の言う通り、何者にもなれないのだ。

 永遠に孤独で、誰とも混じえないのだ。

「どうした、ユル?」

 タルカンが心配そうに、ユルの顔を覗き込む。ユルはもはや、言葉を「失って」いた。

 

 ――こんこん

 

 矢庭に、入り口の扉がノックされた。タルカンは顔を顰め、その扉へ視線を向ける。

「こんな時間に、いったい何だ」

 タルカンは悪態付きながらも、扉を開け――そして顔を険しくした。

 

「いったい、何の用事ようだ?」

「遊びに来ただけだよ、お隣さん。そんなに怖い顔しなさんなって」

 

 そこに立っていたのは隣室に留まる旅人シハーブ――、に化けたヤトだった。

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