第29話 望みを満たす家畜(1)

 その瞬間、間違えた、と思った。

 タルカンの腕の中で、ユルは蒼白になり、恐怖で震えるのをひたすらに堪えた。

 

(あの日には、戻りたくない)

 

 あの一瞬、ユルは青鈍色の昊の下へ叩き落とされていた。あの草原の血で、人間と生き餌人だった二人へ戻っていた。

 気を付けなければ。

 穏やかな目を向け、共に遠い何処かを目指してくれる彼でいてくれるためには、細心の注意を払わねばならない。

 彼を怒らせてはいけない。

 彼はずっとずっと、何か思いつめたような顔をして、ずっとずっと気を張り詰めさせている。

 彼の邪魔をしてはいけない。

 彼の望むままでいなければならない。

 きっとヤトが見れば愚かだと言うだろう。それでもいい。それでもいいから、独りにしないでほしい。もう、あの頃のような薄暗くて寒い場所へ置き去りにされたくはない。

 ユルはタルカンの背に回した手に力を籠め、声を絞り出す。

 

「ごめんね、タルカン。おれ、ちゃんと待ってるよ。ちゃんと言うこと聞くよ。だから、置いて行かないで」

「何を言っているんだ。私がお前を捨てるはず、ないだろう」

 

 そんなのは嘘だ。いつだって、彼はユルを捨てられるのだ。あの日のように。ユルはその言葉を胸の奥へ仕舞い込んで、気が付かない振りをした。

「うん。一緒に行こうね。遠い何処かまで、一緒に」

 ああ、とタルカンは答え、そっとユルから身を離した。

「諸々の買い出しに行かねばならない。私一人で行くから、お前はここで大人しく待っていなさい」

「わかったよ、タルカン」

 タルカンは暗緑の砂よけ布を被り直し、再びユルの方を振り返って言葉を掛ける。

「すぐ戻る」

「うん。いってらっしゃい」

 

 その大きな背が扉が閉められると同時に姿を消すと、ユルはその場でへたりこんだ。

(よかった……)

 穏やかな彼に戻った。ユルは安堵で力が抜け、暫く立てないでいた。

 どうせ待っているだけなのだから、そのままでも問題はないのだが、さすがに入り口の目の前を塞ぐのは好くないだろうと思い、ユルは何んとか立ち上がった。

 ここは、小さな室だった。タルカンの家族が住んでいた天幕よりずっと狭い。一人の人間が荷物を置き、寝転がったらいっぱいいっぱいだろう。

 家具も小さな座卓しかなく、あとは布団が一組あるだけ。小窓があるお陰か圧迫感はないが、木の格子を嵌めただけの小窓なので、夜は冷え込むかもしれない。

 ユルは何んとなく、その小窓の近くで風に当たりたくなり、窓横の壁に寄り掛かる。

 

『まったく、愚かですね』

 

 今日は北方の何処ぞの部族の言葉を使うらしい。

 気が付けば狭い木の室はだだ広い黒い砂原に変容していた。目の前にはいつものように輪郭のない岩場に腰掛けるヤトの姿。

 ヤトは呆れたように深々と息を付いている。

『……五月蠅い』

『言い返す元気もないくせに、それでも反発はしたいんですね』

 小馬鹿にした物言いだ。ユルはムッとするも、ヤトの指摘通り、やや放心していて言い返す言葉が思いつかない。

 ヤトはそんなユルを一応気遣ってか、それ以上に嘲笑の言葉を吐きつけなかった。

 その夜を留めた細長い目には敵意は無く、好きでもないが苦手でもない様相をしている。

『……ん?』

 

 そこでようやく、ユルははた、と心付く。

 

 それはついさっき、隣の宿泊客に感じた感想だ。まさか、とばかりにユルはおそるおそるヤトへ問う。

『もしかしてだけど……ヤト、今近くにいる?』

『今もいますけど』

 それはそうだ。今まさに横で腰掛けている。だが、ユルが聞きたいのはそういうことじゃない。

『いや、そうじゃなくて、ここじゃなくてあっちの……』

 全く要領を得ていない説明だが、ヤトは察したらしい。ハッと鼻で嗤い、

『今さら気が付いたんですか?鈍いですね』

 

 つまりは、どうやったのかさっぱり想像もできないが、彼は「シハーブ」という少年に化けて隣の室でくつろいでいるのである。

 ユルは呆気に取られながらも言い返す。

『わかるわけないじゃん。何あの恰好。いつもと全然違う』

『わざとそうしてますからね』

 けろりとヤトが返す。

 あまりにも違い過ぎる。今はすらりと背が高く、性別も年齢も覚らせない顔をしている。だが、敢えて言うならば東方の顔立ちに近く、肌は白い。

 そして何よりも特徴的なのは、不気味さもある細長い目。だがつい先ほど見掛けた少年は全くそれらの様相を有していなかった。

 ユルはつい、その思いを捲し立てて口にする。

『いつもより美人だしなんか小さいし、というか若いし』

『まあ、知人の姿を真似ていますからね。年齢の近しい見た目の方が警戒無く近づけると踏んだのですが……想像以上にあの男、厄介ですね』

『厄介?』

 男とは、十中八九タルカンのことであろう。連れは彼しかいない。

 ヤトはふっと口端を持ち上げると、

『ぜひ一度、揶揄ってみたいものです』

『……悪趣味』

 心からの感想である。顔を思いっきり歪め、ユルは後ずさる。

 

 そんなユルを見て苛立ったのかヤトは眉根を寄せ、悪態付くように言葉を落とした。

『悪趣味は貴方たちですよ。あそこまでよくもまあ、依存し合えるものです』

『五月蠅い。それに、依存しているのはおれだよ。タルカンじゃない。わかってるよ……こんなのよくないって』

 ユルは目を伏せる。

 知ってる。必死にしがみついていることを。暖かさを求めて、その一瞬を享受するために必死に藻掻く自分が如何に滑稽で無様なことか。

 それでも、怖いのだ。恐ろしいのだ。独りに戻されるのが。

 ヤトは顔を顰めると、低く声を鳴らした。

「気づいてない振りしてませんか、それ」

 その東の言葉を用いた指摘に、ユルは黙して答えない。表情も変えず、聞いていない振りをして、ついと視線を背けた。

 いっそう顔を険しくして、ヤトは言葉を次ぐ。

 

「何時まで、そうしているつもりですか?意思を捨て、縛られたまま。それでは家畜と何も、変わらない」

 

「そんなこと、ない!」

 ユルは我知らず、語調を荒げていた。同意しそうになった自分を全力で否定し、ヤトの胸ぐらを掴む。

「これはおれの、意志だ。おれは人間だ」

 共に行くと、自分で決めた。タルカンと同じ人間でありたいと願った。でも、それでも。

 ヤトはユルの手に触れ、静かに言い落とした。

 

「だから、何時までも半端者なんですよ」

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