第27話 冷たく降り注ぐ雨(1)


 雨は連日続いた。

 

 何処かで土砂が崩れたのか、真夜中に激しい音が轟いたこともあった。運がいいことにユルのいる洞窟には無関係であったが――問題はそこではなかった。

 

 水はいい。

 雨水を貯めればいいのだから。

 問題は、食料である。元々持っていた保存食は少なく、常は魚を釣ったり兎を追ったりして補っていた。だがこの大雨で兎はいない。魚を捕まえに行こうにも、川が遠い。川へ行ったとしても氾濫していて魚を捕まえるどころではない。

 

 こういう時、ユルはいいのだ。絶食して、飢える都度に死んで回復すればいい。無論、タルカンが猛反対したが、選んでいる余裕はなく、ユルは先んじて断食を決行した。腹が空いて堪らないので、いつもタルカンの横で丸まって眠ってやり過ごした。

 

 だがそれでも、手持ちの食料が尽きるのも時間の問題であった。

 

 ユルはぐうぐうと鳴る腹の虫を堪えながら、空になりつつある干し肉の入った袋を見て口を噤んだ。命がけで魚を獲りに行くべきか。それとも。

 

「……タルカン」

「なんだ」

 

 タルカンもまた、できるだけ体力を消耗しないよう、横になって過ごしていた。ユルはそっとタルカンのそばへ寄り、静かに言葉を落とした。

 

「おれがどうして、生き餌人いきえびとって呼ばれてるか知ってる?」

 

「……止せ。知りたくもない」

 

 厭な予感でもしたのか、横になったまま、タルカンは視線を逸らす。枕にしていた自分の腕で、顔を隠す。だがそれでも、ユルは言葉を続けた。

 

「おれが最初にいた村はね、「寄る辺なき村」って言われてたんだ。来たことあるからタルカンも知ってると思うけど……周囲を山に囲まれて孤立した村だったんだ。まあ、それを知ったのは外に出てからなんだけどね」

 

「ユル、止せ」

 

「その村ではね、時々、飢饉があったんだ。貧しい村だったから。その時、村の奴らはおれの肉を喰って、凌いだんだ。それで、シュウジュが言い出したんだ。おれを、「生き餌人いきえびと」――生きたまま餌になる、半端者のなり損ないだって」

 

 ――パシン

 

 身體を起こしたタルカンの平手が、ユルの頬を打った。じんとした熱が、頬に籠もる。ユルはそれでも、真っ直ぐにその大きな砂色の目を向けていた。

「タルカン。前から言ってるけど、のは、無しだよ。厭なら、今すぐおれは川まで行ってくる。身體が治っても、地理的に遠くに運ばれたら、さすがに戻るの時間かかるけど……それでも、おれはあんたを生かすためなら、何だってやるよ。おれは、二人で行きたいんだ」

 タルカンは橄欖石ペリドットの三白眼を鋭くして、ユルを睨め付けた。もう、ずっとその緑色りょくしょくの宝石は淀んで昏いままだ。

 

 空腹で苛立っているのか、タルカンは結っていない鳶色の髪を搔き上げ、嘆息する。

「お前、どんどん話すようになってきたよな」

「……そんなおれは、嫌い?」

 ユルはおすおずと、タルカンを上目で見る。タルカンはその三白眼を僅かに揺らし、表情を曇らせる。

「別に、そうではない。ただ――」

「ただ?」

「言いくるめられて、こちらの立つ瀬がない」

 ようは、お手上げである。降参である。ユルは微笑み、その困り顔をした男に頬釣りをした。

 

「一緒に、行こう。何処までも」

 

 そう言うと、ユルはタルカンの腰元の革鞘から勝手に短剣を一振り引き抜く。ユル自身も餓えていて、手元がふらふらだが、ざっくり斬るぶんには問題がない。

(確か、あんまり量をやると死んじゃうから)

 それに腕を落とすと、焼くのに苦労する。焚き火は目の前にあって、そんなに歩く必要もないから……。

 ユルはぼんやりと思案すると、ざくり、と己の腿に短剣の刃をあてがう。空腹で頭が回らないせいか、痛みまで遠い。だから、何も辛いことはない。



『何故、そこまで愚かになれるんですかね』

 

 不意に、頭上よりあの夜をまなこに留めた者の声が降り注ぐ。今が夢か現か、ユルも判らなくなり、ぼやけた内心で応える。

(おれは、このひとと一緒に行きたいんだ)

『何処へ?』

(何処へでも。おれは人間として、このひとの隣にありたい)

 

 あの日。

 あの穏やかで柔らかな宝石の眼を見た時。そして彼が、己を人間だと認めてくれた時。真っ暗で寒い世界が一変した。あの一瞬で全てが留まり、終わってしまえたらと切に思った。

 だから。

 このひとと共にありたい。あのひとがいつかは向かう、遠い何処かへ一緒に行きたい。

 

『矢張り、愚かです。二人して依存し合って。そんないつ綻んでもおかしくのない関係に何の意味があるんですか』

(わからない。でも、おれにはこれしかないんだ)

 ユルはずっと独りだった。正体を知られれば、タルカンの妹だって、忌避の目を向けてきた。己を知って、変わらずにいてくれたのは、彼だけだ。彼だけが、自分のそばにいてくれるのだ。

 だから。

 

「死なせない。ぜったい、おれが守るんだ」

 ユルは小さく、独り言つ。

 

 すでにヤトの声はなく、ユルは己の削いだ肉を焼いていた。



 その後方で、タルカンは片膝を立てて坐し、じっとユルのその小さな背中を見つめていた。橄欖石ペリドットの三白眼はさらに深く昏く、曇っていた。


(私が)

 

 私が彼を守らなければならないのに。だのに、このざまはなんだ。

 

 タルカンはずっと後悔していた。

 三十といういい大人が、悩んで迷って。そうしている内に、大切な者たちを失った。

 だから、した。

 死なないユルをないがしろにして、先代宗主ジャンブールに仕えていた者としての義務を遂行した。

 だから、血盟した。

 この義務を果たしたら、後はあの小柄な少年のためにあろうと。あの少年からしたらきっと一瞬であろうこの命は、彼のために使うと。

 苛立つ。

 腹の底が煮えくり立つ。


 私が、守らねばならない。

 私が、彼のためであらねばならない。

 

 それが、生きる意味。それ以外、何も無い。

 


 それから数日して、ようやく嵐が去った。鈍色にびいろの厚い雨雲が薄れて途切れ、遠くへと流れて行き、鮮やかな群青とそこに浮かぶ白星が顔を見せる。

 そのかん洞窟内は独特の鉄錆臭の立ち籠め、二人はずっと言葉を交わさなかった。

 だからユルは昊の雨雲が晴れた時、ホッとした。これできっと、元通りになると。ユルは安堵の微笑を浮かべると振り返り、言葉を掛ける。

「一緒に行こう、何処までも」

 

 その頬や腕の処々しょしょには未だ回復していない痣が残されていた。

 

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