第26話 偽りと依存と(2)


 ざあざあと雨が降り注ぎ、ごうごうと風が唸る。

 

 ユルたちは山中にある洞窟へ駆け込んだ。川が近くになくて良かった。虹鷹にじたかが雨を呼んだのだが、それはただの雨ではなく、嵐だった。

 

 ユルは洞窟の外を見て、独り言つ。

「こんなに雨が降ってるのは初めて見たな」

 

 二人が草原を出て、もう間もなく一月ひとつき半が経つ。そろそろ山沿いの何処かの街へ降りようか、と考えていたのだがこの雨と強風だ。外へ出るに出られない。

 ユルの後方へ橄欖石ペリドットの三白眼の男が歩き寄り、声を掛ける。

「ユル、濡れた服を脱ぎなさい。風邪ひくぞ」

「おれ、風邪ひかないよ」

 けろりとしてユルは返す。「馬鹿は風邪ひかない」のノリで言っているが、事実である。不死身のこの身體では菌もウイルスも暮らしていけないらしい。

 タルカンは大いに眉を顰め、深々と息をつく。

「……見てるこっちが風邪をひきそうだから、乾かしなさい」

 彼の眼差しの先で、ユルの筒袖服は水を吸ってべったりと身體に張り付いている。長い白髪もぼたぼたと水滴を落として、見ているだけで寒々しい。

 実際、ユルの身體は冷え切っていて、唇は青白くなっている。ユルはきょとんとしたが、すぐに「はあい」と間延びした声で応じた。

 

 ユルは下着一丁になると、タルカンが焚いた焚き火の上で衣服を乾かす。

 焚き火の前に坐るタルカンもまた下着一丁で、よく鍛え抜かれた薄橙うすだいだいの肉体を露わにしている。同じ男と思えないほどに厚みがあり、くっきりと輪郭を見せる筋は見事なもの。貧相で、赤銅色の肌の上でくっきり見えているのが骨であるユルとは大違いだ。

「……おれも鍛えたら、タルカンみたいになるかな」

「さあ……たぶん?あんまり想像できないが」

 タルカンの返答に、ユルは頬を膨らませる。そのあどねない顔がいっそう、ユルが大人な肉体をしているのを連想させないのだが。タルカンは愉快に思ったのか、くすくすと笑う。穏やかな時間だ。

 

 ユルは突然に睡魔に襲われ、ふああと大きく欠伸をした。雨の中、雨宿りの場所を探して彷徨ったから疲れたのかもしれない。ユルはまた大欠伸をすると、タルカンの横へ座り、彼へ寄りかかった。

 タルカンは少し驚いたように宝石の眼を瞬かせる。

「どうした?」

「ううん。眠たいなあと」

 すでにユルはうつらうつらとしている。タルカンは苦笑して、ユルの頭を優しく撫でた。

「少し、寝ろ」

「うん」

 そう小さく答えて、ユルはゆっくりと目蓋を下ろす。

 

 ――よかった。穏やかだ。


 ユルはふと、まなこを開いた。

「……おはよ?ヤト」

 

 もはや、この黒い砂原で、この細い目に夜を宿した者に会うのにも慣れてしまった。ユルはタルカンと旅立ってからほとんど毎日、多いと一日に二回以上彼と顔を合わしていた。

 黒の砂原の輪郭のない岩場に腰掛けていたヤトは振り返り、嘆息する。

「ここは時間という感覚がありませんので、別にこんにちは、でもこんばんは、でもどれでもいいですよ」

「はいはい」

 ユルは適当に流して、底のない砂原をざぶざぶと進み、ヤトの横へ胡座をかいて坐る。ヤトは眉を顰め、ユルを見下ろして言葉を続く。

「だんだん貴方、態度がゾンザイになってませんか?」

「気のせいじゃない?」

 

『……まあ、別に今はそれでいいですよ』

 

 ヤトが突然に別の言葉へ切り替える。これは西方の言葉だ。ユルは驚くこともなく同じ言葉で、

『はいはい』

『もう、この言葉も滞りなく話せるようになりましたね』

『何回か聞けば、覚えるよ。普通でしょ』

 ユルはヤトとこの黒い砂原で会う都度、暇潰しとして様々なことを学んだ。そして気がつけば、十数種類の部族や国の言葉は聞き、話すことができた。そしてさらには、 

『……世の人間が聞いたら嘆きそうな。文字はちゃんと覚えました?』

『あのミミズ?一応覚えたけど……あれ覚えるの嫌いだ』

 ユルは唇を尖らせる。彼は今、読み書き計算もすんなりとできるようになっていた。その習得スピードは目を瞠るものがあるのだが、他と比べたことのないユルにはそのことを判るはずがない。

 

 ヤトは眉間の皺を増やし、言葉を継ぐ。

『読み書き計算は大切ですよ。街へ下りた時、ぼったくられたりせずにすみやすい』

『ヤトはあるの?ぼったくられたこと』

『あるわけ、ないでしょう』

『なんだ、つまらない』

 いつも小馬鹿にされているので、たまには揶揄ってやろうか、くらいには思ったのである。ヤトは顔を引き攣らせると、ふと、ユルの左頬に目を留めた。

 

「……それより。その頬。どうしたんです?」

 

 ユルはハッとして頬を手で隠す。

 この砂原に来た時、の状態がへ引き継がれるときとそうでないときがあるから混乱するのだ。

 未だにここが何処なのか判っていないが、きっといつもいる場所でない「何処か」なのだろうとユルは考えるようにしていた。

 ユルは頬を手で覆ったまま視線を逸らし、そっけなく応える。

「別に……ちょっとやらかしただけだよ」

「やらかした?何をしたら頬なんて腫らすんです。膝や肘ならまだしも」

「ヤトには関係ない」

「……いい加減、学んでほしいんですけどね」

 ヤトはすっと立ち上がり、ユルへ無感情の夜の眼を向けて続ける。

「さて、そろそろ戻りなさい」

 

 その言葉で、ユルは意識を取り戻した。

 

 タルカンに寄りかかった姿勢のままだ。タルカンは起きていたらしく、目覚めたユルを横目で見て静かに声を掛ける。

「起きたのか?」

「うん」

 タルカンは草原で持ち出した金の数を数えていた。そろそろ人里に下りるつもりなので、入り用になるのだ。ユルはその銅貨を一瞥すると、

「それ、何?」

「気にするな。私に任せておけばいい。お前はゆっくり身體を休めていなさい」

「はあい」

 ユルは無知のふりをした。そうしなければ、ならないからだ。ユルはそっと少しだけ赤く腫れた左頬に触れる。

 

(大丈夫)

 

 言うことを聞いていれば、一緒にいてくれる。穏やかに微笑みかけてくれる。

 ――タルカンはあの日、ユルの肉を喰ってから、時おりユルを打つようになった。それは決まって、ユルがしゃしゃり出て、するとき。彼は決まって、こう言った。

「私がすべてをやるから、お前は何もしなくていい」

 

 ユルは努めて、笑った。大丈夫。問題ない。今日は、穏やかだ。

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