第25話 偽りと依存と(1)
白星が西の地平へ沈み始め、すっかり昊は茜色に染め上げられた。
ユルはタルカンと共に、山道を渡っていた。徒歩だ。馬には最低限の旅荷を乗せ、タルカンが手綱を引いて歩いている。ユルは隣を歩くタルカンをじっと見つめて、尋ねた。
「身體、大丈夫?」
「ああ、心配ない」
彼はそれしか答えない。だが、それ以上の追求をしてはならぬような気迫が何処か感じられ、ユルは黙りこくる。
あの後、再出発すべく起きたタルカンだが、相変わらず体温は高い。傷が開いたのか、左肩に巻いた布は僅かに赤黒くなり、鉄錆の臭いがする。それに――何だか足取りが不確かで、ふらついているように思われる。
ユルはふと、足を止めた。
「ねえ、タルカン」
「どうした?」
タルカンも足を止め、馬も手綱を引いて留める。ユルはその
「イシャ、とかいうのに診せたほうがいいんじゃない?」
ユルの言葉に、タルカンは三白の眼を瞬かせる。
「……お前、よく医者なんて言葉、知っていたな」
「……」
矢張りと言うべきか、ツッコまれた。無論、ユルも自分で言っていて、何を言っているのかわかっていない。イシャなるものが人の名前なのか、物の名称なのか、それとも何らかしらの役職名なのか。それすらも判っていない。
タルカンは苦笑すると、くしゃくしゃとユルの白髪を撫でる。
「大丈夫だ。あまりあの草原から離れていないからな。妙な噂でも立って辿り着かれたら大変だ」
「で……でも、その傷。本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だ」
きっぱりと言い切る。
そればかりだ。無知なユルでも解る。全然、大丈夫じゃない。顔色だってどんどん悪くなる一方だ。ユルは掴み掛かるようにタルカンの服の裾を強く掴み、声を荒げて言う。
「おれには、どれくらいでタルカンが死んじゃうのかわかんないんだ。お願いだから、無理しないでよ。――独りは、厭だよ」
ユルは項垂れる。言葉を口にすると、その恐怖が形となってずっしりと背中に伸し掛かる。腹の底がひやりと冷えて、足が竦む。この男だけが遠い何処かに行ってしまうのは、厭だ。
タルカンは困ったように頬を掻いて、言葉を継ぐ。
「しかし、現実問題。このあたりの村に下りるわけにもいくまい。足が付く。ノランバートル様はおそらく、生きているだろうからな」
草原の民たちは削いだユルの肉を持っている。おそらく、あの時も未だ幾分かは持っていたはずだ。そして宗主の大怪我となれば、躊躇わず民は宗主のために肉を明け渡すだろう。宗主のいない流離いの民など、ただの流浪者だ。
ユルは唇を噛み締める。
あの男の首でも落としてやればよかったと悪態付きたくなる。だが、今さらそれを悔やんだところで、どうにもならない。先ずは、目の前のこの男を救わねばならない。ユルはタルカンを見上げて、涙ぐんだ砂色の大きな眼をきっと向ける。
「じゃあ」
ユルはすかさず、己の腕に噛みつき、肉を引き千切る。血肉の引き裂かれる厭な音と、生暖かな血潮が飛び散り、ユルの顔を赤黒く染め上げる。その噛み千切った肉を片手にずいと押し付けて、ユルは続ける。
「おれの血を飲むなり、肉を喰うなりしてよ」
「それは、できない」
パシン、と皮膚を張る音が鳴る。タルカンがユルの手を振り払ったのだ。その勢いでユルの手からは噛み千切った赤黒い肉がぼとり、と落とされる。
タルカンはその肉片から視線を逸らし、ユルの提案を突っぱねようとくる。でも、こればかりは引き下がらない。ユルはタルカンの胸ぐらを掴んで、
「おれはこんなのじゃ、死なないの知ってるだろ。お願いだから、その傷を治してよ」
「だが、私はお前を守ると――……」
「先にそのへんで死んじゃったら、意味ないじゃん。おれと一緒に、遠い何処かへ行こうよ。タルカンだけで行かないでよ」
顔を背け、タルカンは悔しげに顔を歪めた。ユルは続けざまに、どうせ一度は肉を削いだくせに、と言いそうになって慌てて口を噤む。何となく、これは言ってはいけない気がしたからだ。
暫く悩みに悩んだ末、タルカンは低く、応じる。
「わかった」
言い終えると、タルカンはユルを抱き締める。
「すまない、ユル。私は、駄目な男だ。でも――必ず、私はお前を守り、お前の全てであろう」
じんわりとタルカンの身體の熱いのがユルに伝わる。痩せ我慢をしていたのか、だいぶ汗も搔いている。ユルは宥めるようにタルカンの背を撫でて、
「タルカン、身體熱いよ。だから、早く」
早く、治してよ。そう言って、ユルは己の腕を差し出した。別に、脚でも腹でも首でもいい。だから早く、
タルカンはユルの、肉の削げた腕を伝う血を舐めた。くすぐったい。だが、血を少し摂取した程度で治る傷ではなかったらしく、タルカンは腰元の革鞘から短剣を抜き取り、その傷口へ刃を突き刺す。
「―――っ」
鈍い痛みに、ユルの身體は反射でビクリと跳ねる。タルカンはユルの腕が大きく振れぬよう、片手で支え、刃を肉の中でぐずぐずと走らせる。
きっとここに、第三者がいれば嘲笑してこう言うに違いない。「随分と手慣れている」、と。事実、数日の間ユルの肉を削いでいただけあって手際がいい。
ユルはそのことが堪らなく哀しく思えたが、その感情には気付かない振りをした。そのことを疑問に思ったら、家族でも同胞でもない、この名前のない関係が終わってしまうような気がしたから。
タルカンはその削ぎ落とした血肉を丸呑みし、ぺろりと手に付着した血を舐め取ると、
「すまない……痛むか?」
「ううん。大丈夫だよ」
ユルはぎこち無い笑みを浮かべて見せる。タルカンはおもむろに左肩を巻く布を外し、すっかり傷口が治ったのを認めた。自身で体感するとその脅威の効き目に驚かされる。なるほど。黒装束たちやノランバートルたちがこの少年を手放さないのも頷ける。
そしてきっと――……。
タルカンなそっとユルの両脇を抱え、高く持ち上げる。ユルは驚いて、その大きな砂色の目を何度も瞬かせる。
「どうしたの、タルカン?」
「いいや、お前は小さいなと思って」
ふふ、とタルカンは笑う。その宝石は昏さを押し留めたままだった。
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