第24話 歪な想いと願い(2)


 その細目の者はやおらユルの傍へ寄った。

 

「ヤト、でけっこうですよ」

 

 人間ひとの物とは思えぬ、しんとして、澄んだ声だ。その細長い深淵がユルを覗いている。ユルは少したじろぎながらも、きっとヤトを睨みつけた。

 ヤトはそんなユルを暫く見詰め、そして深々と溜息を落とす。

「まったく、縛るものから逃れなさい、と言ったのに。連れてきてしまうとは」

「は?」

 思わず大きな声を鳴らしてしまった。ヤトの言っている意味が解せない。だがそんなユルに構うことなく、ヤトはまた呆れたように嘆息して言葉を続く。

「まあ、無知な子供に何を説いたところで無駄なのですが。ずっとこのまま、というわけにもいかないのでね」

「あんた、なんなの?また夢に出てきて」

 ようやく、疑問を口に出来た。

 以前も同じような夢で、彼を見かけ、そして言葉を交わした。ヤトは「ふむ」と言葉を溢し、腕を組むと言葉を継ぐ。

「夢……まあ、夢に近いのですが。ここは夢ではありませんよ」

 その発言に、ユルはいっそう眉を顰める。

 夢ではないと言うならば、ここは何処なのだ。ヤトと話したのは以前の一回きりだが、眠りに落ちた後、この黒い景色は幾度となく視た。

 ヤトはふっと嗤って、静かに言葉を続ける。

 

「ここは夜の地。全てが連なり、同一の、夜の民ザラームの領域。迷い込んでいるのは、貴方の方ですよ」

 

「ざ……?」

 知らない言葉だ。黒装束の用いている言葉でも、草原の民の用いている言葉とも異なる。

 ユルが疑問で首を傾いでいると、ヤトはまた、息を落とす。先ほどから呆れられてばかりだ。ユルは己が無知であることを痛いほど理解して認めているが、それをこうも分かり易く嘲笑されると、少しは苛立ちを感じるものだ。

 不意に、ヤトがユルのそばへ詰め寄り、冷たい声で言い放つ。

「そのへんは追々教えるとして。先ず、あの人間を捨てなさい」

「は?」

 またしても思い切り大きな声が出る。先ほどからヤトの言っている言葉がちっとも理解出来ない。あの人間、とはおそらくタルカンのことだ。今近くにいるのは彼しかいない。

 ヤトはその闇夜を留めた細長い目を細め、さらに言葉を続ける。

 

「解かっているでしょう。貴方とあの者では進む時間ときことわりも異なる。共にいるなど、とうてい叶わないことなんですよ」

 

 どきり、とした。


 それは頭の片隅で、感じていたことだ。ユルは死ぬことのない。黒装束のシュウジュが言っていた通り、きっと老いにくいのもある。今年で十六だというのに、まだ十になったばかりくらいに幼い外見。

 成長が止まったわけではない。地下室の中で、少しずつ背は伸びたし、声も幼児から少年のそれになった。けれども、突然にその成長は止まった。栄養の不足も疑われたが、不死の彼にその概念は当てはまらない。

 ――つまりは、タルカンが老いて死ぬかたわら、ユルはずっとこのまま時が止まって、独り残される可能性があるのだ。ユルはそのことが堪らなく恐ろしく、見て見ぬ振りをしていた。タルカンと共にあるため、その現実から、目を逸らし続けていた。そしてそれは今も。

 

 ユルは歯噛みし、声を荒げて叫ぶ。

「なんで……なんでそんなことを他人のあんたに言われなくちゃいけない!」

 

 力の限りヤトを睨み上げる。ヤトは僅かに眉根を寄せると、低く、冷静な声で言葉を落とす。

「同じ、永遠と循環の時を生きる者からの助言アドバイスです。素直に受け取りなさい」

「同じ?」

 ユルは目を瞬かせる。ヤトは呆れたように眉間の皺を増やすが、それでも淡々と継ぐ。

 

「そうです。私は夜の民ザラームですが、器をもち、昼と夜の間を介在しているのです。だから、貴方と同じ黄昏に在ると言っても差支さしつかえが無い」

 

「……何を言っているのかさっぱりわからない」

 心からの感想である。ヤトの一言一句。どれひとつとして理解できる言葉が無い。呆気に取られているユルの顔に苛立ったのか、ヤトはユルの額を指で力強く弾く。

「ようは、貴方と同じ、不老不死ってことですよ」

 ひりひりと痛む額を押さえながら。ユルは問い返す。

「あんたも、生き餌人いきえびとなの?」

 すると、ヤトは明らかな不機嫌面をして、顔を歪める。

「その忌まわしい名を使うのは止めていただきたい。それは、一部の人間が私たち夜の「繋ぎ」に与えた蔑称みたいなものです」

「繋ぎ?」

「ああ、もう。次から次へと質問ばかりですね」

 ヤトは髪を掻き毟る。我慢の限界らしい。だが、ヤトの言い回しは抽象的過ぎる。ユルはあっさりとその思いを口にする。

「だって、全然わからない」

 

 ヤトは顔をいっそう険しくし、ユルへ詰め寄ると言い聞かせるように言葉を鳴らす。

「兎に角。あの人間にくっつくのは結構ですが、無知は捨てなさい。知識を有し、そのうえで自分の在り方を見つめなおしなさい。そうすれば、如何に無駄なことをしているのかと自然と知れる」

 無知を止める。それはユルの望むところでもある。無知は、役立たずは、足手纏いはもう厭だ。共に行くと決めたのだから、同じ人間として本当の意味で隣に立ちたい。けれど。

 ユルはヤトを押しのけると、きっと睨め付ける。

「タルカンと一緒にいるのは無駄なことじゃない。ぜったい、そんなことない」

 

 一緒に遠い何処かへ行くと決めたのは、自分の意志だ。一瞬後悔はしたけれど――矢張り、共に在りたい。それを無駄なことにしたくない。あの穏やかな緑色りょくしょくの宝石を見て、よかった、て安堵する結末を迎えたい。

 

 ヤトはハッと鼻で嗤う。

「根拠もないのに、よくもまあ、そんなことが断言できますね」

「五月蠅い!」

 ユルは声を張って、一発平手打ちでもかましてやろうと手を振り上げる。だがその手は届かない。ヤトが軽々と手で受け止めたのだ。ヤトはユルの手を掴んだまま、続ける。

「まあ、いいでしょう。でも先ず、そうしたいのなら、ちゃんと医者に診せた方が賢明ですよ」

「え」

 ヤトの言葉に、ユルはぽかんとする。すると、少しずつ、黒い砂原が溶けて消え初め、あの緑豊かな山道が現れ始める。砂原と共に姿を薄れさせ始めたヤトはさらに言葉を次ぐ。

「傷口、だいぶ膿んでましたし、何か菌が入ったのかも。死なせたくないなら、説得することですね」

 

 そうして、完全に姿を消すと、ヤトは最後に一言、残した。

「また、会いましょう」

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