第23話 歪な想いと願い(1)
タルカンが馬を走らせてどれくらい経っただろうか。草原を離れ、西沿いの山脈に入って、気が付けば昊の白星は天頂で燦々と光を落としている。タルカンの負傷した腕で抱き寄せられていたユルは、突然に馬の速度が落とされたことに心付いた。
「タルカン?」
「……く」
樹下に馬が止めると、タルカンは今代宗主ノランバートルによって穿たれた左肩を押さえた。血はすでに止まっているが、血を流しすぎた。加えて、このままでは感染症に罹ってしまう。タルカンは貌を歪めながらもタルカンは馬から下りて馬の手綱を木の枝へ括りつけると、
「傷口を洗ってくる。心配するな」
馬の停められた木の向こうには、渓流がせせらいでいた。タルカンはよろめきながらも、その川辺へと向かう。ユルは半ば滑り落ちながら下馬し、タルカンを追った。
「タルカン、大丈夫?」
ユルの呼び声に、タルカンは三白の眼を瞬かせる。
「……お前、馬から降りられたのか」
「あ、うん……」
否。最早ただ転げ落ちたも同然で、実は一瞬足を挫いていたのだが。だがそんなことはどうだっていいことだ。ユルは、上着を脱いで傷口を濯ぐタルカンのそばへ走り寄った。
「それより、おれにできることない?おれ、何も知らないから……何をしたらいいのか分からなくて」
タルカンの露わになった逞しい
ゆえに、そのことにはホッと安堵した。普通の人間はどうやらちょっと出血するだけで死んでしまうらしいので。
ふと、ユルはタルカンがその傷口を破った筒袖の切れ端で覆い始めたのを認めた。どうやらその傷口を縛りたいらしいのだが、片手で難儀している様子。ユルは手を伸ばし、タルカンへ尋ねた。
「それ、巻くの手伝うよ?」
「大丈夫だ。お前は休んでいていい」
行き場を失った手を伸ばしたままユルは目を瞬かせる。
(まあ、そうだよね)
下手に無知な者が手を出しても邪魔になるだけだ。ユルはその手をきゅっと握り、下ろした。
(おれ、何もできないや)
知っていたことだ。ずっと地下室に閉じ込められ、食事の仕方も知らずに生きていた。あの魚露目の男の言葉は実に的を射ている。
(おれ、お荷物だ)
今さらに後悔が立つ。あの時、共に行こうなどという甘言に乗るのではなかった。己の浅はかな望みに、この男を巻き込んではいけなかった。
(邪魔にならないように、しないと)
ユルは両手を胸の前で握り、項垂れる。
すると、そんなユルの様子に気が付いたのか、ようやく傷口の圧迫を終えたタルカンが歩き寄った。
「どうした?」
ユルはその柔らかに細められている
「ううん、何でもないよ」
それは歪な笑みだった。元々、そんなに笑ったことがないので、これはタルカンの家族たちの真似だ。けれども、タルカンは気にしなかったのか、大きな手でユルの頭を撫でて言葉を継ぐ。
「少し休んだら、進もう。この先へ進んだ先に街があるはずだから」
そう言って、馬の繋がれた場所へ赴こうとする。だがその瞬間、タルカンはふらつき、咄嗟にユルがその身體を支えた。
「ふらふらだよ?」
ようは貧血である。鍛え上げられているとはいえ普通の人間であるタルカンは放っておいて血の量が戻るわけではない。失った分は栄養を補給するなりしなければ治ることはない。だが、最低限の荷物にそんな精の付く食物はない。
(死んじゃったら、どうしよう)
ユルは不安になった。普通の人間はどれくらいの傷で命を落とすのか、ユルは知らない。だから、若しかすればこの男の傷は致命傷なのかもしれない、と不安が胸の奥をかすめるのだ。ユルはその圧し掛かる不安で、つい、口を滑らせてしまう。
「おれの……血でも飲む?」
これまで黒装束や、あの草原の民たちがずっとそうしてきたので、その方法しか思い当たらなかったのだ。だが、その言葉はタルカンの癪に障ったらしい。その三白眼はぎろり、と鈍い光を宿した。その鋭さにユルはビクッと肩を震わせて、小さな声で詫びた。
「ご、ごめんなさい」
「……気にするな。少し休む。何かあれば起こしなさい」
低い声で言い放つと、タルカンは馬の停めた木の根元に寄り掛って座った。
そこでようやく、ユルは彼の額に汗が滲んでいることに気が付いた。その手に触れてみると、酷く熱い。傷口から菌でも入ったのか、彼は発熱していたのである。だというのに、倒れそうになるを堪えて馬を駆っていたのである。
(死んじゃ、厭だよ)
ユルはタルカンに寄り添って坐った。膝を抱え、顔を埋めて恐怖で震えあがって泣き出しそうになるのをひたすらに堪える。タルカンはすでにか細い寝息を立てている。高熱で息苦しいのか、少し早く荒い呼吸音だ。その音がいっそうユルの不安を掻き立てる。
――お前は、混ざり得ない
――お前は、永遠に何者にもなり得ない
あの夢の中で、あの黒い人影たちはそう言った。己は決して人間と共にあれないと。これまで深く、考えたこともなかった。置いて行かれることの意味を。けれども、今は途轍もなく恐ろしい。この男に先立たれ、孤独になることが、途轍もなく恐ろしい。
「おや、もうこんなザマですか。想像以上にみっともない」
不意に、何処かで聞いた声が頭上より降り注いだ。
ユルが驚いて顔を上げると、そこは山中の一角、川辺の樹下ではない。そこは一面黒い砂原。昊と地上に境界線のない、何処までも不定で不明瞭な夜の世界。ただ一つ、天頂にぽっかりと空いた穴から垣間見せる群青の昊と照り付ける白星だけが色鮮やかに輪郭を有している。
夢で視た景色と同じ光景だ。いつのまにか、眠ってしまったらしい。
目の前には年齢も性別も定かでない何者かが立っていた。白い肌に
「あんた……
その者はふっと口端を持ち上げて嗤い返した。
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