第22話 雨上がりの日の逃走(2)
それは瞬きもする間もない一瞬だった。
タルカンは目にも留まらぬ早さで短剣を引き抜くと、ユルを抱き抱えて、戦士たちへ立ち向かって行った。
その大きな身體からは想像もできぬほどに細やかで、そして俊敏な身の熟しだ。タルカンは語学だけでなく、その剣の腕でも、先代宗主ジャンブールに気に入られていたのだ。
その猛攻を、ただ一人魚露目のチヌアが受け止めた。
「いやあ、マジで冗談は止めてくださいよ、タルカン様」
チヌアの顔は引き攣っている。小柄な彼にとって、タルカンの重い一撃を受け止めるのは骨が折れる――だが、それでも彼は最もタルカンとは付き合いのある部下として、タルカンを止めたかったのだ。チヌアは打ち負けそうになりながらも、声を張る。
「お母上と妹君に先立たれてヤケになってないっすか!?他にもお嫁に行った姉君や妹君いるっすよね?その人たちのためにも思い留まってくれたりしないっすか?」
「断る。私は自暴自棄になってなどいない」
きっぱりとタルカンは言い放つ。すると、チヌアは声を荒げ、怒りを露わにした。
「じゃあ、どうにかしてるんすよ!あんた独りで、どうやって生きるつもりなんすか?そんなお荷物連れて」
この魚露目の男の言葉はもっともだ。逃げて何処へ行く?いや、行けないことはないだろう。だが、それは彼一人の場合だ。
彼は、ユルという財宝を宗主から掠め取り、この地を去ろうとしている。きっとノランバートルは地の果てまで追い詰めるだろう。そうなると、草原の民と共に築いた人脈は使えない。それらを頼りに、居場所を突き止められてしまいかねないだ。
それはつまり、彼は孤立無援で、ユルという無知で
タルカンはぐいっとユルを引き寄せると、少しだけ声を張って告ぐ。
「チヌア、赦せ。私は、決めたのだ。あの日、誓ったのだ。私は彼の全てであろうと。私は彼を守る者であろうと」
それと同時に、剣を強く振るい、チヌアの肩を薙ぐ。赤い鮮血の散るのを手で押さえながら、チヌアは魚露目を茫然と見開いて言葉を継ぐ。
「それは……おかしいっすよ、タルカン様」
タルカンの言葉は奇妙だ。
あの日、とは
「あんた、何言ってんすか?」
だがそれ以上、チヌアの言葉は紡がれない。
タルカンの短剣がその胸を十字に裂き、腹を思い切り向かいの天幕まで蹴飛ばしたからだ。痛みと衝撃で魚露目の男は蹌踉めきながら起き上がるが、脳震盪を起こしたのか立ち上がれない。
とうとうチヌアが崩れ落ちるのと同時に、残りの四人を薙ぎ、頸や顎を打ち抜いて卒倒させる。鮮やかな手つきだ。戦士たちが沈黙するとすぐさまタルカンはユルの手を引いて走り出そうとする。だが無論、今代宗主がそれを許さない。
「逃さんぞ、裏切り者!」
「――くっ」
激しく刃が打つかり合う。ノランバートルの鍛え上げられた肉体は飾りではない。草原の民の上に立つものとして相応しくあろうとした彼は日々鍛錬を怠らず、
ユルは焦燥した。
(どうしよう)
このままでは、タルカンが殺されてしまう。今回は前回のように己を差し出せばお終い、とならないことだけは察していた。せめて、隙を。タルカンがあの大男を退ける瞬間がなければならない。
(おれに、出来ること)
タルカンはノランバートルの相手で手一杯で、ユルから手を離していた。だから、動くことは可能だ。邪魔になってはならない。でも、このまま指を加えて待つのは厭だ。
「ぐ……っ!」
タルカンの呻き声で、ユルはハッとする。ノランバートルの長剣がタルカンの肩を穿ち、薙がれた。
次の瞬間に呻いたのはノランバートルの方だった。ユルは倒れた戦士から頂戴した短剣で、小柄な身體を生かしてノランバートルの足元に潜り込み、その肉を穿っていた。ユルはどの肉を抉れば痛みが激しく、どの筋を断てば動けなくなるのか関してだけは、身を持って知っていた。だから、刃を力いっぱい引いて、
「貴様……!」
苦悶を含むノランバートルの声が轟かされる。ノランバートルはタルカンを力付くで押し切り、薙ぎ払うと、その長剣でユルの頸を突いた。
「うう!」
だが、今さらそんなものは痛くない。何度も何度も、じわじわと全身を削がれて来た。喉を貫かれて声が出せず、血が溢れて吐血もするが、それでもユルは食らいつき、ノランバートルの動きを押し止める。
「ユル!」
後方からタルカンの声が鳴り響く。タルカンは拾元部下の長剣を拾い、それでノランバートルの胸を深々と貫いた。
ノランバートルは血を吐き、胸を押さえて倒れ込む。タルカンはその剣を引き抜くことなく、その灰白色の男の足元で頸を剣で突き刺されたまま、蹲るユルを抱き寄せて後退した。
「大丈夫か?抜くぞ」
「う……」
頸を深く貫くノランバートルの長剣が引き抜かれ、血潮が飛び散り、多量の血が喉元から溢れて溜まり池を作る。ユルは咳き込み、こみ上げる熱さを堪えながら身體が自己治癒するのを待つ。
「悪い。そのまま歩けるか?」
そう、ユルに声を掛けるタルカンもまた、肩から血を溢れさせていた。彼はユルのように回復したりしないので、ある意味彼のほうが重症である。
だが、他の戦士たちが意識を取り戻す前にこの場を立ち去らねばならない。タルカンはユルの腕を引き、天幕の外に繋いでいた馬を一頭へユルを乗せ、己も跨ると、馬の腹を強く蹴って掛けさせた。
――掴んでおかなければ、繫ぎとめておかなければ。
大切なものは全て、ある日突然、理不尽に奪われる。自ら何もしなければ、乾いた砂のように手から溢れ落ちて行く。それは身を持って知った。肩の痛みに堪えながらもタルカンはユルをぎゅっと抱き締め、ただ前を見据えて手綱を操った。
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