参章

第21話 雨上がりの日の逃走(1)


 自我というものが生まれた時。世界は真っ暗で、恐ろしいものばかりだった。

 生き餌人いきえびととはきっと、そのために生まれ、終わることを赦されぬものなのだと、ずっと言い聞かされていた。だから痛みと苦しみ、飢えと渇き。それが全てで、それ以外を何も知らなかった。

 

 ――お前は人間だ。たまたまそういう体質をした、人間だ。

 

 そう、あの穏やかな眼差しをした男に言われた時、ユルの永遠に続く寒さの中に、一瞬の温もりを知った。この暖かさの中にずっと留まっていたい。そのためならば何だってできる――ユルはそう思い、願った。ずっとこのまま時が止まって、そのまま終わってしまえばいいのに、と。


 


 

 雨上がりの朝、少し湿った風が流れると、ユルはタルカンの腕の中で、ゆっくりと瞬きした。

 

 この男は言った。

 己を囚える者のいない何処かへ、共に逃げよう、と。

 彼はまた穏やかさのある目を向けてくれただけでなく。そのことが信じられず、暫くの間、ユルはその言葉の意味を何度も心の内で反芻した。

 

 ようやく落ち着くと、ユルはその腕から離れ、その幼さの残る眼でタルカンを見上げる。

 

「逃げる?何処へ?」

 

 橄欖石ペリドットの三白眼はじっとユルを見詰め返した。その宝石には未だ、しんとした昏さが残されている。タルカンはその昏く鮮やかな目を柔らかに細めて、静かな声で応える。

 

「何処でもいい。そうだな――西はどうだ。遠い、お前の生まれ故郷だ」

 

 遠い西の果て。そこには、ユルと同じような赤銅色の肌をした人々が住まうのだという。だが、ユルはその景色を知らない。人々がどんな家に暮らし、どんな服を着て、どんな言葉を話しているのか、ひとつも識らないし、知らない。自分が何処から来て、何処へ向かっているのか、何ひとつ知らない。

 

 ユルは少しだけ顔を曇らせて、言葉を落とす。

「おれ、何も覚えてないし、知らないよ」

 

 タルカンはユルの雨水で張り付いた白髮しろかみを手で払いながら、

「それでもいい。お前を苦しめない場所なら、何処へでも」

「でも、タルカンは?そんな遠くへ行ってしまってもいいの?タルカンの故郷はここでしょう?」

 遠くへ行くということは、タルカンは故郷を離れねばならないということだ。さらには宗主の断りもなく去るわけだから、故郷には二度と戻れぬかともしれない。

 ユルがじっと潤んだ砂色の眼で見上げていると、タルカンは口元を綻ばせて微笑んだ。

「私は元々、土地を定めぬ流れ者だ。何処へだって行けるし、何処でだって生きていける」

 できることと、したいことは異なる。けれども、ユルは彼をこの地へ留め置く理由が思い付かない。そして何よりも、

 

(行きたい)

 

 彼と共に、自分が人間であれる場所へ行きたい。彼と同じひとりの人間ひととして、ずっとそばに在りたい。ユルはそっとタルカンの上衣を掴み、

「本当に、一緒に来てくれる?」

「ああ。私はお前を守る。お前のためにあろうと決めたからな」

 いつ?ならばどうして、一度は見捨てたの――そんな疑問を浮かべてはならない。ユルは無意識のうちに全ての疑念を押し込んだ。

 そして思い込む。

 己のもまた、彼のためにあろう。きっとそうすれば、そばにいてくれる。きっと微笑みかけようとしてくれる、と。ユルはタルカンへ寄りすがって言った。

「じゃあ、連れて行って。遠い何処かへ」

 

 ユルはタルカンへ連れられて、彼の天幕を訪れた。草原の民たちが久方ぶりの群青の昊へ目を輝かせている隙をついて、こっそりだ。勝手に何処かへ行ったことがばれれば、確実に彼らはユルを探すだろう。

 タルカンはユルの着替えやありったけの金、水をいれる革袋など必要最低限の荷物を頭陀袋へ放ると、深緑の砂よけ布をユルの頭から被せる。

「あまり意味はないが、一応これで顔を隠しなさい」

「うん」

 ユルは頷く。厭でもユルの赤銅色の肌や白髪は目立つので、こんな明るい時間に歩いては目を引いて仕様がない。タルカンは腰元の短剣を確認した後、頭陀袋を担ぎ、ユルの手を引いて天幕の外へ出た。その瞬間。

 

「おい、そこ。何処へ行く気だ?」

 

 目ざとい男だ、と悪態付きたいところだ。天幕の外には、灰白色かいはくしょくの目をした筋骨隆々な男が腕を組んで立っている。タルカンは小さく舌打ちすると、ユルを庇うように立ち塞がり、その男の名を呼ぶ。

 

「ノランバートル様」

 

 今代宗主ノランバートルは太い眉を顰め、タルカンを睨め付け、低い声で問う。

「勝手に私の持ち物を何処へ連れて行くつもりだ?」

 持ち物、とはユルのことだろう。ユルは生き餌人いきえびとだ。彼は人間の奴隷ですらなく、薬となる血肉を与える家畜に過ぎない。

 ユルが震えながら、タルカンの腕を掴むと、タルカンはその手を押し留めて言い放つ。

「ユルは下がっていなさい」

 わかった、としか答えようがない。ユルには目を瞠るほどに機敏で重い拳があるわけでも、相手を唸らせる程に捲し立てる弁があるわけでもない。

 

 ノランバートルはちらりとタルカンの担ぐ頭陀袋を一瞥すると、その灰白色を鈍く光らせる。

「なんだ?痩せぎすな小僧を連れて駆け落ちか?」

「だったら何だと言うのです」

 タルカンはきっぱりと答え、その三白眼を冷ややかにする。

 すると、ノランバートルは「は!」と嘲り、さらには腹を抱えて嗤う。

「嫁を娶らぬと思えば!悪趣味が過ぎるぞ?相手に雄の化け物を選ぶとは!」

 愉快痛快、とノランバートルは言葉を続く。彼にとってはユルは牛や豚とさほど変わらないのだ。否。草原の民、さらにはあの黒装束たちにとっても同じことであろう。

 

 タルカンはノランバートルの言葉には何も言い返せず、変わりに腰元の革鞘から剣を短剣を引き抜いた。

「――そこを退いていただきたい。ノランバートル様」

「宗主たる私に剣を向ける意味をわかっているのか?愚か者」

「無論だ。私は――決めたのだ。、この少年のために使うと」

 タルカンの言葉に、ノランバートルはまた鼻で嗤った。ノランバートルは余裕のある足取りで数歩下がると、片手を上げ、冷徹な声で高らかに告ぐ。

 

「自己満足も甚だしい。お前たち。あれはお前たちの上官でも、同胞でもない。躊躇わず、殺れ」

 

 ノランバートルの後方には、唯一還砂病かんさびょうに罹らなかった、魚露目のチヌアを含む五人の戦士たちが剣を携えて控えていた。

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