第20話 身と心を削ぐ刃(2)


 ユルは青鈍あおにびの昊を仰ぎながら、何時間、何日と血肉を捧げ続けた。

 

 回復すればすぐにまた、次の手を脚を心の臓を削がれ、もはや今が何日目なのか、昼なのか夜なのかも判らない。痛みなど、とうに忘れ、身體が反射的に動じることはあっても、心はずっと凪いでいた。

 

 ユルはふと、あの夢を思い起こした。

 みなが輪郭を失い、夜に飲み込まれて行く。なのに、己だけは置いていかれる。そんな夢。

(そうだね)

 あの橄欖石ペリドットすら、己を見てはくれなくなった。

 顔はよく、合わせるのだ。彼はよく冷たい目をして、その手にユルの血肉臓物で赤黒く染まった肉切りの刃を持っている。そして彼は躊躇うことなくその刃を振り落とし、ユルの身を、心を削いだ。ずたずたに、引き裂いた。

(おれも、あっちへ行きたい)

 あの屍たちが行く、夜の世界へ。連れて行ってほしい。けれども、半端者のユルは近寄ることすら許されない。

 ユルはふと、ぼんやりと首だけで横へ広がる光景へ視線を向けた。

 

 ユルがあんなにも血肉を注いでも、還砂病かんさびょうの人間は減らなかった。

 どうやら、重症化してからでは、肉を根気よく与え、その過程で生き抜いた者しか生き残れないらしい。その根気よく看病をしている途中で、その看病をする者が倒れてしまうので、だんだんに手が足りなくなり、そうしているうちにまた病人と死亡者が出る、という状態なのだ。

 結局今、看病にあたっているのは軽症の段階で肉を食ったノランバートルやその娘、チヌアを含む四、五の戦士、黒装束のシュウジュ、そして――タルカンだけだった。

 

『哀れだな』

 不意に頭上より、老人の声が落とされた。

 首を反対側へ向けると、そこには初老の黒服が立ち、ユルを見下ろしていた。彼は横へ胡座をかいて座すと、掠れた声で続ける。

『結局、お前は元の場所へ残されるのだ。お前は生き返っているのではないのだろうな――きっと、独りで誰もいない循環を巡っておるのだ。感情など、捨ててしまった方がよい』

 そうだろうな、とユルも思った。独りが寂しい、あの目が向けられなくなったことが哀しい、なんて感じなければこんなにも辛くない。苦しくない。

 ユルは声にならない、形にならない声で哭いた。そしてそこで、彼の意識は途絶えた。






 ユルはまた、黒い砂原の中に立っていた。

(あれは……昊と白星?)

 見上げると、天頂にぽっかりと穴が空き、そこには群青と白とが覗かれている。以前にはなかったものだ。ユルはぼんやりと小さな真昼の昊を見上げていたが、ふと、背後に誰かが近寄ったのを感じ取った。

 

「……だれ?」

 

 そこには、ひとりの人影がある。それは、男にも女にも、年寄りにも若者にも見える不思議な人影だ。すらりと靱やかな白い身體に袖の長い黒衣を纏い、項で長い真玄まくろの長い髪を束ねて下ろしている。表情を読ませぬ細長い眼には深淵の常闇が塗り籠られており、白目がない。

 その人影はユルを認めると、ふっと口端を持ち上げ、しんとして澄み切った声を鳴らした。

「これは、珍しいですね。昼と夜と間の子――黄昏たそかれの子とは」

黄昏たそかれ……?」

「無自覚ですか……まあ、そうでしょうね」

 少し呆れたように息を落とすと、その人影はゆらりとユルのそばへ歩き寄った。ユルのすぐ目の前へ辿り着くと、彼はユルの顎に手をあてがい、そっと持ち上げた。

「まあ、いいでしょう。これならまあ、私でも何とかできそうですし」

 何を言っているのかさっぱり分からない。だが問い返すのも忘れて、ユルはその人影の目を見た。それは、夜を押し留めた眼だ。だが、恐ろしくはない。曇りのない、闇だ。――嫌いでは、ない。好きでもないけれど。

 ふと、その人影はユルからすっと離れた。長い真玄まくろの髪を払い、足音もなくふわりと砂原へと躍り出る。振り返りざまに彼は言い放つ。

「白星はもう間もなく、この東の地でも元に戻ります。お前は先ず、お前を縛るものから逃れることですね」

 その人影は少しずつ、黒の中へと溶けていく。そして彼は、夜を宿した細長い目を向けて、言葉を残した。

 

「私は鏡渡ノ夜刀カガミワタシノヤト。近いうちに、また会いましょう」



 ――ぴーひょろろ……

 

 その虹鷹の声で、突然にユルの意識は引き戻された。

 

 雨だ。

 止め処無く降り注ぐ、虹鷹の呼んだ雨だ。

 

 ざあざあと瀧のような雨が降り注ぎ、視界を白く染め上げる。ユルはよろよろと上体を起こし、周囲を見渡す。

 病になった者も、そうでない者もみな、久方ぶりの雨に驚き、昊を仰ぎ見た。彼らは暫く茫然としていたが、ようやくその降り注ぐ真水が雨であることを理解し、歓喜した。――還砂病かんさびょう白星しろほしの光が弱まった時に発症しやすい病。つまり、この雨雲が晴れればまた、昊の白星しろほしは燦々とその確かな光を地上へ降らせることだろう。

 

「ユル」

 

 不意に、傍らから深い男の声が鳴らされ、ユルは息を呑んだ。ここ数日一度も呼んではくれなかったその名。そしてその声主は――ユルはゆっくりと、その声になった方向を見た。

(タルカン?)

 そこには昏い橄欖石ペリドットの三白眼をした男が片膝を立てて座していた。彼はやおらユルの口元へ手を伸ばし、ユルの口を塞ぐ猿轡をそっと外すと、静かに言い落とす。 

「待たせてしまったな」

「どうして……?」

 どうしてまた、名を呼んでくれたの。どうしてまた、微笑みかけてくれるの。困惑して、聞きたいことがたくさんあるのに言葉が出ない。ユルは茫然としてタルカンを見上げる。

 

 タルカンは橄欖石ペリドットを昏くさせたまま、柔らかにその三白眼を細める。

「赦せ、とは言わない。お前には、辛い思いをさせた」

「おれを……捨てたんじゃないの?」

 ユルはようやく、言葉を絞り出す。あの日、ユルは草原の民を救うために、生き餌人いきえびととしてタルカンにまで捨てられたのだと思った。実際、彼は何も言わず冷たい眼差しでユルを見下ろし、肉切りの刃でユルを刻んだ。

 タルカンは目を伏せ、言葉を継ぐ。

「すまない。これしか、方法が無かったんだ」

 そんなはずはないのだが――ユルは昏さはあってもまた、己に穏やかさのある目を向けてくれたことが嬉しくて、そのことだけで頭がいっぱいだった。

 だから、タルカンの「還砂病かんさびょうの同胞を救ったら、ユルを開放する」なんていう身勝手な解決方法を選んだことを責めることはできなかった。

 ユルは必死に頭を左右に振り、タルカンの胸に飛び込む。

 

「また、来てくれただけでも、うれしい。ずっと……ずっと、このまま時が止まって、そのまま終わってしまえばいいのに」

 

 タルカンはユルの背に手を回し、静かに言い落とす。

「逃げよう」

 彼はユルをぎゅっと抱き締めると、静かに言葉を繰り返す。

 

「お前を囚える者のいない何処かへ、共に逃げよう」

 

 その朝。白星の旭光が久方ぶりに群青の昊と緑の平原を照らし上げた。 

 

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