第19話 身と心を削ぐ刃(1)
タルカンは家へ走り、入口の垂れ幕を横に引き、そして瞠目した。
「――ツェツェグ!」
妹ツェツェグは天幕に入ってすぐの場所に倒れていた。急ぎ屈んで抱き上げ、タルカンはさらに息を呑む。
「ツェツェグ……?」
ぱらぱらと、妹の腕が砕けて砂になる。よく見れば、足元には多量の砂が散らばり、脚も失われている。そして――ツェツェグは黒い涙で頬を汚していて、呼吸は浅く、身體が冷たい。
(そんなはず)
つい先程まで、ツェツェグは軽症であった。指先が軽く黒ずんでいるだけの状態の人間ならば、外にも他の天幕にも何人もいる。タルカンの血を与えようが与えまいが、それがたったの数時間でこれ程までに広がるなど、なかった。
「ツェツェグ、しっかりしろ。私の声が聞こえるか」
「……にい、さま」
ツェツェグは掠れた声を溢す。
「ごめん、ね……にい、さま。にいさま、たくさんのこと、知って……る。だから、にいさま、とても……優しいの。ユルのこと、も……ちゃんと考えて……だまってた、のよね」
それは、途切れ途切れの懺悔。ツェツェグは何も映すことのできない溶けた眼を細めて、微笑む。そしてふと、苦しげに呻くと、残された腕の一部分で兄にしがみつき、言葉を続ける。
「かあさま、大丈夫、かしら……何も、見えないから。わからない…………にいさま」
「怖いよ」
そう言って、ツェツェグの身體はふつり、糸が切れたように力なく崩れ落ちた。タルカンは茫然とした。腕の中にある妹は苦痛で顔を歪めたまま、動かない。
冷たくなった妹を抱きかかえてよろよろと立ち上がり、タルカンは外を出た。そして――他の者たちも同様であることを知った。
昊はいっそう昏さを増し、看病にあたっていた者の六割、七割の者までもが床に伏せた。そしてその多くはすぐに悪化し、すでに重症の者で処置の間に合わなかった者らは屍となる。
どちらを、取るか。
もはやそんな悠長なことを考えている時間を、昊の白星は与えてはくれない。大切なものは全て、奪われる。掴んでおかなければ、繫ぎとめておかなければ。自ら何もしなければ、乾いた砂のように手から溢れ落ちて行く。家族も、友も、同胞も――そして、愛する人も。
タルカンはギュッと妹ツェツェグの骸を抱きしめ――その
その騒々しさに、横たわったままのユルは目を覚ました。
天幕の外が妙に騒がしい。ゆっくりと首だけを持ち上げると、すっかり傷は癒えてごっそり持って行かれたはずの手足は生えている。ただ、腹は杭を打ち込まれて大きく穴を空けていた。
(なんだ……?)
ユルは天幕の入口の方へ首を傾けた。
(ネズミだ)
入口の近くをちょろちょろと走り回っている、ひとつ目をぎょろぎょろさせる、小さな獣たち。あれは――死肉を喰らう者だ。だが、不死の肉は好まない――ユルはネズミの名すら知らない。だが、それらがそうなのだと、何故か知っていた。
(あんなにもたくさん……誰の肉をねらっているんだろう)
ユルは投げ出された手に力を込める。何やら慌てていたのか、腕には杭も枷もなされていない。
「――急げ!」
突然に天幕内に男の声が鳴らされて、ユルはビクッと手を震わせた。
入口の方を見れば、数人の筒袖の男たちが入って来ている。昨晩からさほど時間が経っていないというのに、もう次の肉を削ぎに来たらしい。彼らは顔を青ざめさせて、
「行き来に時間がもったいない。直接近場でやるぞ」
と言うや、乱暴にユルを穿つ杭を引き抜く。ユルは思わず身體を仰け反らせ、猿轡で言葉にならない悲鳴を上げた。
痛みで苦悶しながら、ユルは彼らが妙に切羽詰まっていることに心づく。そしてふと、その数人の手先が黒く染まっていることに目が留まる。
(あれは……)
確か、ノランバートルの娘もあんな風になっていた。つまり、彼らも同じ病に罹っているということか。だがそれ以上の思案を戦士たちは許さず、ユルの腕を縛り上げ、首の枷から繋がれた鎖を強く引いて立ち上がらせる。
「さっさと歩け!」
ユルは鎖を引く男に従い、天幕を出た。ユルの囚われていた天幕は他の草原の民たちから少し離れた位置にあり、ゆえにすぐに異変を目にすることはなかった。
だが間もなくして、草原に横たえられた幾人ものの人々の姿を認め、ユルは目を見開いた。
(なんだ、これ)
彼らは
(なんだ、これ)
ユルは無意識に、彼らの中にあの
「おい、こっちだ。ボサッとするな!」
グイッと強く鎖を引かれ、ユルは転倒しかける。だが、それは留められた。何者かに受け止められたのだ。ユルは後ろから己を受け止めた者を見上げた。
(――タル、カン?)
ユルは目を見開いた。そこには、
「タルカン様!」
驚いたのは、ユルの鎖を引いていた男も同様らしく、慌てた風に駆け寄った。
「申し訳ない。こいつが薄鈍で」
「……いや、構うな」
タルカンは低くそう言い放つと、ユルをぐいっとその男へ押し付けた。
(え……?)
その時の、タルカンの目にユルは茫然とした。知らない誰かみたいだ。あの冷たい目。それはまるで。けれどもその先を考えるのが厭で、ユルは視線をそらし、俯く。
そして。
ユルは腕に枷を嵌められていることがこれほどまでに厭だと思ったことはない――タルカンは静かに、淡々と言葉を続けた。
「私も手伝おう」
鎖が強く引かれ、ユルは地面へ叩きつけられた。それと同時に杭を首へ打ち付けられて呼吸と動きを同時に封じられる。じたばたと藻掻くも次の瞬間、肉切りの刃が肩を穿っていた。
「――――――!」
ユルは大きく仰け反る。そして頭上男たちが何か言葉を掛け合うのを聞く。だがそんな言葉よりもずっと、恐ろしいと感じた。肉切りの刃を持つ、その
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