第18話 夜へ招く病(2)


 タルカンはまだ手足が黒ずんでいる程度の、軽い還砂病かんさびょう者たちのそばに駆け付けた。


(なんて数だ……)


 目の前には、幾人ものの男女おとこおんなが横たえられて並べられていた。痛い痛い、と呻きながら彼らは終わりのないように感じられる苦痛に耐え忍んでいる。

 還砂病かんさびょうの罹患者は後を絶たない。どころかその数は急速に増え、草原の民がみな倒れるまでそう猶予もないように思われる。

 看病に回る者たちの中にも続々と倒れる者が出、さらにはその肉を狙って奇妙なひとつ目のネズミが数を増やしていく。あのひとつ目のネズミは死肉を、そして還砂病かんさびょうの者の肉を好むらしい。お陰で看病だけではなく、このネズミの駆除まで対応しなくてはならなくなった。


 タルカンは急ぎ、腰元の短剣を引き抜き、己の手を傷つけた。

「本当に効けばいいが」

 一番手前にいた若い男を抱え、その口に血を流し込む。口を閉じさせて、無理矢理に飲み込ませると、男は咳き込んだ。治すことは叶わないと言っていたので、傍目にはその効果は判らないが、信じるほかあるまい。

 タルカンはすぐに他の人々を回って、その都度血を与える。

「……っと」

 想像以上に早く地が足りなくなった。視界が昏くなり、足元がぐらつく。

(くそ)

 タルカンは踏ん張って立ち、頭を抱えて呻く。あの児童こどもは全身の血肉を捧げ続けているというのに、己は数的の血でしか応えることができない。人間とはなんと脆く、弱いことか。

 ふと、重症者が並べられている方角を見ると、女子供おんなこどもを含めた発症していない者総出で「不死者の肉」を煮込んだ粥を患者へ与えている。


(母上はどうなっただろうか)

 タルカンは血の溢れる傷口を押さえ、何となく母ホンゴルズルの寝かせられている場所へ赴いた。

 母親のすぐそばまで辿り着くと、泣き叫ぶ妹ツェツェグの声が鳴り響いた。

「母様!お願いよ。粥を食べてちょうだい」

 彼女の手には、赤く染まっている肉の粥がある。横たえられたホンゴルズルは首を振り、その粥を食むのを認めない。

 タルカンは眉を顰め、ツェツェグのそばへ寄った。

「どうした、ツェツェグ」

「タルカン兄様。母様が薬を食べてくれないの。どうして?」

 女たちにはこの粥の材料を伝えていないはずなのだが。母親は勘がいい。何かを覚って拒否しているのだろう。


 タルカンはふと、ツェツェグの手の指先が黒ずんでいることに心付いた。

「ツェツェグ、その手……!」

 ハッとしたツェツェグはさっとその手を後ろに隠す。

「か、母様の方が重症だもの。母様が優先よ」


 妹が家族想いなのは知っている。ユルを恐れたのも、家族に害があるかもしれないという恐怖からだ。タルカンは深々と嘆息すると、傷が塞ぎきるまえの手を差し出して言う。

「……せめて、俺の血は飲め」

「兄様の血を?どういうこと?」

 驚いたようにツェツェグは兄そっくりな三白眼を瞬かせる。

「色持ちの血は、還砂病かんさびょうの進行を抑える効果がある。せめて、それくらいはしろ。器はないから、我慢して舐めろ」

「え――……兄様の手を舐めるの?」

「私だって正直に言えば厭なんだから、我慢しろ」

 渋々とツェツェグは兄の傷口を舐める。それを認めると、タルカンはツェツェグから肉の粥を奪い取り、

「お前は家で少し休め。本当は痛むんだろう?」

 還砂病かんさびょうは初期段階でもたいていは全身が痺れるように痛むという。そんな状態で顔色ひとつ変えずに看病するのは気丈で健気だが、兄としては看過できない。

「母上の看病は私がする」

「……ごめんなさい」

 ツェツェグはしゅんとして、自分たちの天幕へ向けて帰って行った。堪えているが、時々ふらつき、肩が震えている。よほど痛むのだろう。


 つい、と視線を母ホンゴルズルへ戻すと、タルカンは横に膝を立てて座る。

「母上、お気づきだったんですね」

「あなたがあんなにも厭がるんだもの。気付かない母親はいないわ」

「ツェツェグのためにも、喰もうとは思わなかったんですね」

「一度道を甘んじれば、もう歯止めは聞かなくなってしまう。息子の可愛がっている子の犠牲の上で生き延びるなんて……そんなこと……」

「私は……答えを出せずにいます。家族を、同胞を、犠牲にすべきでないことはよく解っています。でも、それでも」


 あの小さな、華奢な児童こどもを永久の地獄に囚えてよいものなのか。己を庇って身を差し出したあの少年を、さらなる苦痛へ導く一助となってしまうことが、恐ろしい。あの初老の黒装束は言った。これは生きるのに不要な感情だと。なるほど、そうかもしれない。


 ホンゴルズルは黒ずみ、崩れつつある手を伸ばし、タルカンの頬に手を添える。

「タルカン。どうか、あなたは生きて。これから何が起きようと、その宝石の眼に世界を刻んでちょうだい」

 その眼はすっかり崩れてきっともう何の像も結んでいない。タルカンはその母親の手を取った。指先が固く、冷たい。少し力を篭めれば砂のように散り、細かく風に溶けてしまいそう。

 母は途切れ途切れの声で続ける。

「そして……守りなさい。真に愛するものを。私は……亡き父上や……あなたたちとともに、……あった時はどんな刹那よりも……かけがえのないものだったわ。あの少年が……私にとっての、人ならば……迷わず、守りなさい……」


 その頬に添えられていた手の力が失われた。

 するりとタルカンの手から抜け落ちて、タルカンは咄嗟にその手を受け止めた。母ホンゴルズルは黒い涙を頬に伝わらせたまま、動かなくなっていた。

「母上……世界とは何と残酷なのでしょう。それでも、ひとつを選ばせてはくれないのです」


 きっともっと若く、無鉄砲な頃であったら迷わず、愛する者の手を引いて世界の果てまで逃げきろう、などと決心したに違いない。


 けれども、三十という時は同胞たちへの責務という重責を肩へ伸し掛からせるにら十分な時だ。ゆえに、好き勝手に振る舞うことへの忌避感がすべての行動を阻んでしまう。


 タルカンは涙を堪え、声を押し殺して哭き――ふと、末妹ツェツェグの事を思い出した。

(そうだ。あいつも、症状……)

 初期段階だが、彼女も還砂病かんさびょうの症状が出ていて、己の家で休ませている。早く様子を見に行かねば。タルカンは立ち上がり、急ぎ己の天幕へと走った。

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