第17話 夜へ招く病(1)


 翌朝。

 昊は曇天の青鈍あおにび色に包まれ、白星しろほしの輝きは翳りを見せた。


 草原全体がしんとした冷気に包みこまれ、まるで夜がずっと続いているようだった。その中、草原の民たちは朝から騒々しかった。そして草原に並べられた者たちを見て、一人の老女が嘆くように独り言ちた。

 

「なんと、恐ろしい……。白星しろほし様が、お怒りじゃ」

 

 その日は、先代宗主ジャンブールの死も伝えられた日だったのだが、各家で続々と病人が出たのだ。それもただの病人ではない。還砂病かんさびょうの罹患者――即ち、昊の白星しろほしの恩恵を失った者たちである。

 タルカンは呻き苦しむ同胞たちを見て茫然とした。

 その中には、タルカンの母ホンゴルズルもある。彼女は横たわり、黒い涙を流し、両手両足を黒ずませて、荒い呼吸をしている。他の患者も同様で、中には手足を失ってしまっている者もある。

 

 悲しみに暮れる草原の民たちの前に、今代宗主ノランバートルが現れ、声を轟かせた。

『おい、シュウジュとやら。患者ごとに必要な分量を割り出し、指示せよ。通訳は……タルカンとチヌア。お前たちが担え』 

 その後方には数人の戦士と黒装束の老人が控えていた。その中からチヌアが「承知」と答え、病人たちのもとへ走る。

 タルカンの方を向くと、チヌアは言い放つ。

「タルカン様、色々思うところがあるのは解かるっすけど。同胞を救うのが優先すよ」

「……わかっている」

 低く、苦しげにタルカンは答える。タルカンは察していた。この治療にはあの少年の血肉が使われるだろうことを。

 

 黒装束のシュウジュはタルカンの母ホンゴルズルをまず診た。この母親は重症だ。彼がホンゴルズルの目蓋を手で押し上げると、土色の眼球をどろり、と溶けて黒い涙として外へと押し流された。

 そっと目蓋を下ろすと、シュウジュは呟く。

『私たち人間は白星により器をかたどられ、創り出されたと言う。還砂病かんさびょうとは、我々の器を元の無に戻そうとするもの――と言われている病。そしてこれらは特に、白星しろほしの光が弱まった時に発症しやすい。この曇天も若しや関係しているのではあるまいか……』


 タルカンはシュウジュとホンゴルズルを見下ろして、低く問い返す。

『だとして……何が言いたい』

『これまでの不敬が祟ったのだ。白星様がきっとお怒りになり、虹鷹様を遣わさないのだ』

 シュウジュは悔しげに唇を噛み締め、項垂れる。タルカンは顔を歪め、言葉を絞り出す。

『――そう言いながら、お前もまた、勝手をしているではないか。白星の怒りや喜びなど伺うことなく、ユルの身體を刻み血を絞り、民へ分けている』

『だが今回、治療方法のないのも事実』

 

 タルカンはふと、その初老の男の言い方に疑問を持つ。それはまるで――。タルカンはその疑問を口にした。

『対処的なものならば、知っているのか?』

 黒装束の老人は一瞬だけ黙し、そして、すっと立ち上がった。

『お前たち草原の民では廃れた風習なのだな。かくいう私の村でも、とうの昔に取ってたが。お前たちのところは不思議だ。担いうる者がここにあるというのに』

『どういうことだ?』

『お前のような、赤や青、緑の宝石の目を持つ者の血が、一時的に還砂病かんさびょうの進行を止めるという。なんでも宝石を持つ人間は白星の力を多く受け継いでおり、この病に対抗する力をその血に宿しているのだとか』

 タルカンは目を見開いた。それは即ち、「色持ち」である己にはできることがあるということだ。

 だがシュウジュは、そんなタルカンの希望を一瞬のうちに打ち砕く。

『だがお前の母親は手遅れだ。生き餌人いきえびとの肉を食わせねば死ぬ。それもかなりの量がいる。早く手を打たねば、母親は死ぬ』

 死ぬ。不死の少年の血肉を守るか。それとも、有限の命を持つ母親を守るか。早く選ばねば、その母親は、唯一己を誇ってくれた母親は、死ぬ。

 

「母様!しっかりして、母様!」

 矢庭に差し込まれた娘の声でユルはハッと我に返った。ホンゴルズルの話を聞き、駆け付けた妹のツェツェグである。ツェツェグは苦悶する母親を前に涙を目一杯ためている。

 ツェツェグは顔をくしゃくしゃにして、兄タルカンにしがみつく。

「タルカン兄様、母様どうなってしまうの?」

「母上、は……」

 茫然として、タルカンは言い淀む。早く決めねばならぬ。さもなければ。

 迷うタルカンを急き立てるように老人は言う。

『タルカン殿。どうせ昨晩に切り落とした肉だ。あまり気負わなくてよいと思われる』

 けれども、一度ひとたびその誘惑に手を染めれば、それは何度も繰り返される。そんな気がするのだ。母親の次には妹、その次には友を。その次には友の家族を、愛する人を。そうやって、あの児童こどもを傷つけることを厭わなくなってしまうのではないか。そのことが堪らなく恐ろしい。

 

 するととうとう痺れを切らしたのか部下のチヌアが駆け寄った。

『ちょっとちょっと、何、団らんしてるんスカ。シュウジュてやら、さっさと分量を指示してくだサイよ』

『ああ、そうだな。……タルカン殿。妙な優しさは捨てられよ。それは生きるに不要な優しさだ』

 そう言い放つと、シュウジュはチヌアに各重症者に必要な血肉の量を伝えていく。硬い肉は食めないので、よく煮込むように、それでも難しい場合はまず血を飲ませて少し回復したところを食わせるようにと指示を出す。

 それをチヌアは他の部下たちへ伝え、動かす。彼らはまず昨晩切り取った肉や臓物、そして血を運び、鍋にかけて煮始めた。

 

 それらを前に、タルカンはぐっと唇を噛み締め、拳を握る。もはや、迷う猶予すら与えてはくれない。

「――軽症者は私に回せ。私の血で、進行を遅らせる」

 タルカンの言葉に、チヌアたちは驚いたように振り返る。

「へ?なんすか、それ」

「あの黒服いわく。色持ちの血には、還砂病かんさびょうの進行を遅らせる効能があるらしい。すぐ全員の治療は無理だ。軽症者は私へ回せ」

 タルカンの橄欖石ペリドットが鈍く光る。せめての罪滅ぼしにもならぬが――チヌアたちはその覚悟を覚ったのか頷き、タルカンの指示に従った。

 

 そして草原の片隅。

 女の手の平ほどに大きさのネズミが走って行った。それは黒黒としたひとつ目をぎょろぎょろさせた、奇妙なネズミであった。

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