第16話 囚われた不死の少年(2)


 夢を視た。


 ユルは何処までも広がる砂の原に独り、立っているのだ。

 ぽっかりと浮かぶ白星を除き、昊には色がない。だから、雲が覆っているのかそうでないのかも判らない。昊と砂原には境界はなく、どちらも黒一色に染め上げられている。


 そしてそれは、己もであった。

 身體すべてが真闇であり、輪郭がない。ゆえに己もまた境界を持たない。己は昊なのか、砂原なのか、それとも他の何かなのか。


(また、この夢だ)


 そう。何度か視たことのある夢だ。

 ユルはおもむろに前へ足を進めた。だがその感覚はない。何となく、歩いているような気がするのだ。


(何か、いる)


 ゆらゆらと揺らいで、それは見ている。その足元をちょろちょろと小さな何かが蠢いた。

(何……?)

 その蠢動する何かはうぞうぞとこちらへ向かっているようにも思われる。

(ネズミだ)

 突然にそんな考えが浮かぶ。

 それらは鈍く光らせている大きなひとつ目を持っている。その眼をぎょろぎょろさせて、犇めき、そしてこちらへ寄って来ている。


 ふと、狗の声がした。

 するとその声のした方角から、大きな四脚の影が何頭も現れる。それを視てユルはすぐに思った。

(虚ろ狼の群れだ)

 その狼たちはネズミたちを取り込み、ユルの方へ走り寄ってくる。爛々と黒い目を光らせて、なだれ込んで来る。

(逃げないと……)


 矢庭に、りん、と鈴がなったような気がした。ユルはハッと息を呑んだ。いつの間にか、無数の人影が己を取り囲んでいる。

 何者にも見える者たちだ。彼らはみな異なるようで、同じ。彼らは白目のない黒目でユルを捉えると、しんとした声を一斉に鳴らした。

 

永久とこしえに囚われた子よ、しかと聞け」

 彼らは同じ声で、言葉を落としていく。

 

「昊の白星がお隠れになる」

「この象られた地は夜にのまれ、我らと同一となる」

 

「だが忘れるな」


 しんとした冷気が立ち籠める。気がつけば、虚ろ狼たちがすぐ近くにまで迫っており、あの人影の姿はない。

 だが、あれらの声だけはしんしんと降り注ぐ。

 

 ――お前は、混ざり得ない

 ――お前は、永遠に何者にもなり得ない

 ――忘れるな、ゆめゆめ、忘れるな

 

 そしてあっという間に、虚ろ狼の群れはユルを過ぎ去って行く。ユルは茫然とそれらを目で追った。

 

 するとそのずっと向こう。遠く離れた先の暗闇で何者かが佇み、じっとユルを見ていた。それは深淵の夜を留めた細い目を持つ真玄まくろの人影だ。その人影はゆらり、と揺らぎ、そしてぽつり、と小さく言葉を落とす。

 

「ゆめゆめ忘れるな、黄昏たそがれの子よ」

 

 だがその人影に、ユルが気づくことはなかった。




 


 天幕の外で、タルカンはひとり佇んでいた。


 間もなく夜が明ける。だが、今のタルカンにはそんな事を考える余裕はなかった。脳裏にはずっと、あの児童こどもの弱々しく華奢な背中が映し出されている。

 矢庭に、穏やかな女の声が横から鳴らされた。

「タルカン、冷えるわよ」

「母上」

 タルカンはその皺だらけの顔をした、けれども愛嬌のある目をした己の母親を認める。母ホンゴルズルは苦笑して、タルカンの横に立った。

「お前は誰に似たのか、とても優しくて、それが難点ね」

「……申し訳ない」

 タルカンは顔を曇らせる。

 草原の民の中で、己が異端であることをタルカンは知っていた。ゆえに、そんな自分を気に入ってくれた先代宗主ジャンブールには頭が上がらなかった。

 ホンゴルズルはにっこりと微笑んで言葉を返す。

「いいえ。私はそんなお前を愛し、そして誇りにすら思っているわ。でも……そう生きづらそうでは、少しばかり、後悔してしまうわね」

 ふと、母親の顔が曇る。きゅっと両手を握り締めて目を伏せる。

「いつのことだったかしら。まだお前がとおになったくらいの頃だったわね。まだ父上も健在で……父上とともに西方の街へお前は行き、そして変わった」

「世界はすべてが異なり、そしてすべてが同じだと覚ったのです」

 タルカンは西の方角へ視線を向ける。

 それは二十年も前のことだ。タルカンは父親や宗主ジャンブールらと共に、西方の街を訪れていた。それはひとえに、反物や羊の毛皮を売るためであった。

 すべてが新しい世界だった。

 知らない言葉、知らない顔立ち、知らない風習。まだとおの少年だったタルカンにはすべてが刺激的であった。

 だがその一方で、群青の昊と白星と、その星に輪をかける虹鷹は草原の民の渡る平原からも見えるものと同じだった。だから、とてつもなく不思議だった。

 タルカンは目蓋を下ろし、その時の光景をありありと思い出す。

「どうして、光を授ける白星様や虹鷹様に違いがないのに、ちっぽけな人間に違いなぞあるのだろうか。私はそう思いました。そして言葉を覚え、異国の者たちと言葉を交わし――」

「そうしてお前は、同胞も余所者もみな等しく見るようになったのですね――そしてあの、不死の子供にも」

 と母ホンゴルズルが言葉を添える。タルカンは眼を開き、静かに頷いて肯定の意をを示す。

「あれは変わった体質を宿した、普通の少年だ。私達と異なるからと傷付けていいはずがない」

「それに何と言っても、美しく素直でいい子ですからね」

 揶揄う母親の言葉に、タルカンは耳たぶまで真っ赤にした。

「何を言ってるんです、母上!」

 母親はころころと笑い、タルカンの肩をたたく。

「ふふ、隠さなくてもいいのよ。お前は、あの子に惹かれているのでしょう。どうしようもないくらいに」

 愛らしい土色の眼を柔らかに細め、ホンゴルズルは息子を見上げて、ゆっくりと言葉を続く。

「見れば判ります。あの子を見るあなたの目は、とても優しいもの」

 図星であったタルカンは参ったな、と頭を搔く。先代宗主ジャンブールよりも亡き父よりも、そして誰よりも頭の上がらない人物がいる。母親であるホンゴルズルである。三十になってもなお、母親はやっぱり、母親である。

 

 ぴーひょろろ……


 不意に、鳴り響き、木霊するその声に、タルカンは八して昊を仰いだ。

「虹鷹の声?」

 だがその、三色の飾り尾は垣間見えない。タルカンは眉根を寄せる。いったい何故、未だ陽も昇っていないというのに。

 不意に、ホンゴルズルの身體がぐらり、と傾いだ。それは何の前触れもなく、音もなく、力なく母親は崩れ落ちる。タルカンは橄欖石ペリドットの三白眼を見開いた。

「――母上!?」

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