第14話 拒絶と選択(2)


 タルカンはその男の名を呼んだ。

「ノランバートル様……!」

 

 そこには、灰白色の眼をした男と、タルカンの部下チヌアを含む数人の戦士たちの姿があった。その傍らにはタルカンの母親のホンゴルズル。元々、彼女がタルカンを妹ツェツェグを追うよう呼びに行き、タルカンだけが飛び出して来たのだが――どうやら並々ならぬ異変を気取ったらしい。彼らまで駆け付けたのだ。

 

 ノランバートルは一歩前へ出ると、高らかに声を鳴らす。

「我が父、先代宗主ジャンブールが身罷られた今、草原の民を束ねるのはこの俺だ」


 灰白色の目の男の言葉に、タルカンの妹ツェツェグが「え!?」頓狂な声を溢し、さらに言葉を続ける。

「ジャンブール様が、亡くなられた?」

 その母親ホンゴルズルも同様に驚いて口元を覆っている。呼びに行ったが、その事情は知らなかったらしい。一方でタルカンやチヌアを含める戦士たちはすでに知っていたのか、顔を曇らせて黙している。

 タルカンの緊急の呼び出しとは宗主ジャンブールの死のためだったのだ。


 新たな宗主は羊たちのそばに転がる獣の屍へ視線を落とし、言い放つ。

 

「虚ろ狼か。群れでないのは珍しいな。ハグレモノか」

 

「虚ろ狼?」

 

 とツェツェグが問い返す。ツェツェグの反応にノランバートルは眉根を顰めると、

「そうか。お前の妹は見たことのないんだったな」

 とタルカンへ灰白色の目を向ける。タルカンは無言で肯定の意を示した。


 ノランバートルはやおらその狼の骸へ歩き寄り、淡々と告ぐ。

「虚ろ狼とは、夜の眷属であり、白星様の恩恵を受けぬものの成れの果てである。我ら人間が触れることを許さず、されど突然現れては瞬く間に人間を姿形残さず飲み込んでいく魔物だ」


 新たな宗主の言葉に、ツェツェグは顔を顰める。確かに、ツェツェグの斧は通らなかった。だが。

「え、でも。ユルは触ってたわ」

「色持ちでもないというのに、おぞましい。あの老人の言う通り、白星様の恩恵を受けていない証拠だ」


 ユルは、己へ向けられたその灰白色の目に忌避の様相が付されたのを感じた。そして、その目には覚えがあった。

 黒装束たちは己を刻む前に、必ずこうした目を向けて、言うのだ。あれは人間ではない。白星しろほし様の加護を受けられず、されど死して夜の民と交えることも許されぬ半端者の成れの果てだ、と。

 

 ノランバートルは冷ややかな目をタルカンへ向けて続ける。 

「タルカン。その化け物を捕らえよ。それは家畜だ。自由を与えるなぞ許さん」

 

 タルカンは応えない。唇を噛み締めて、立ち尽くしている。そんなタルカンにノランバートルは眉根を寄せる。

「どうした?俺の言うことが聞けないか?――まあ、いい。お前たち、さっさと捕らえよ!」

 承知、と他の戦士たちが応じた。タルカンはハッとして彼らを止めようとする。

 

(ダメだ)

 咄嗟に、ユルはそう思った。

 

 これでは、タルカンが危ない。己を人間として認めてくれた、唯一人のひとが。彼らがどんな集まりでどんな決まりがあるのかは分からないが、彼らを全て敵に回すのはきっと得策でないことは判った。

 己は首を落とされようが、頭を潰されようが、心の臓を抉り出されようが死ぬことはない。けれど、彼は違う。彼を、守らなければ。


 ユルはタルカンの手を掴んで留めた。タルカンは驚いたように振り返り、

「ユル?」


 もう片方の手も重ね、その両の手の掴む力を少しだけ、強める。暖かくて大きな手。ユルはこの手で頭を撫でられるのが大好きだった。この手でぎゅっと抱きしめられると、胸の奥がじんとした。

 未だその感情の意味も名も知らないけれど、それはかつてこれまでに感じたものの中でもっとも心を動かすものだった。

 

 ユルはにっこりと微笑みかける。

「短いあいだだったけど、ありがとう。たのしかった」

 

 タルカンは目を見開き、言葉を失っている。いつ見ても透き通っていて優しい、橄欖石ペリドットの瞳だ。いつまでも見詰めていたい、そう思わせるほどに美しい宝石だ。

 きっと、こうして人間ひととして会えるのはこれで最期だ。ユルは唇が震えそうになるのを堪えながら、努めて笑った。

 そして――手を離し、そして身を離した。

 

「バイバイ」

 

 精一杯に明るい声でそうひと言落とす。タルカンの顔を真正面から見ることができず、ついと視線をそらすとユルは自ら一歩前へ出た。

「おれは逃げたりしないよ。だから、タルカンにも、その家族にも手を出さないで」


 予想外なユルの行動に草原の民の男たちは足を止め、目を瞬かせる。ユルは両手を上げ、何も持っていないことを示し、一歩一歩彼らの方へゆっくりと歩き寄った。


 その背後で立ち尽くすタルカンがユルを呼ぶ。

「おい、ユル!」

「タルカンはさ、死んだら、死んじゃうんだからさ……命は大事にしなよ」


 ユルは振り返ること無く、告げる。ゆえにその時にどんな表情をしていたのか、タルカンには知られない。否。白星の残光、その星星を背に浴び、彼の顔は翳って誰にもその顔は見えなかった。

 行く手に立っていたノランバートルは眉を顰める。

「ふん。自ら戻ってくるとは。想像以上に躾のされた家畜だな」

 躾、違うよ。これはおれの意思だよ。内心でそう呟くが、声には出さない。

 

(こんな気持ちは初めてだ)

 

 物心付いたとき。初めは恐れと怒りに支配されていた。己を傷付け、苦痛を与える者たちを憎しみ、ひたすらに報復のことばかりを考えていた。

 けれども痛みも苦しみも当たり前のものになって、気がつけば全てを諦め、何も感じなくなっていた。きっと死ぬことも許されない己はずっとこうして生きるのだと思っていた。

(いや、きっとそうやってこれからも生きるんだろうな)

 これからはまた、あの生活に戻るんだ。生きながらにして肉を削がれ、臓物を引きずり出され、骨を砕かれる。永久とこしえに続く地獄だ。

 

(こんな感情、知らなかったほうがよかったな)

 

 あの男に出会わなければ、辛い、だなんて。寂しい、だなんて。思わずにすんだかもしれない。胸の奥がキュってなって苦しい。そして少し、恐ろしい。

 ノランバートルのそばへ辿り着くと、数人の戦士たちがユルを取り囲んだ。取り囲み、彼らはユルの手に鉄枷を嵌め、鎖に繋いだ。

 

 昊を見上げると、星星の瞬きを妨げるように少しずつ雲が流れ始めていた。

 

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