第13話 拒絶と選択(1)


 薄ぼんやりとした視界の中で、三白眼の娘が顔を青ざめさせていた。

 ああ、あのひと同じ、目をした人だ。そうだ。彼女は無事だろうか。怪我など、していないだろうか――ユルは目眩を覚えながらもゆっくりとその娘の方へ手を伸ばした。

 

 だが、その手はふと留められる。

 その目はみるみるうちに恐怖と忌避の色で染まって行ったのだ。その娘は後退り、上擦った声を上げる。

「こっち来ないで!」

 キモチワルイ。そう、彼女は言い放つ。そんな彼女の様子からユルはすべてを察して、伸ばした手を下ろした。

 ――ああ、見られたんだろうな。

 タルカンはその後も何ともなかったかのように接していたが、これが普通なのだ。

 ユルは立ち上がろうとして、激しい目眩に襲われた。

 視界が歪み、回る。堪らず両手を地につき、目を瞑って項垂れた。血が足りていないのか冷たい汗が吹き出して、吐き気もする。

 回復して間もないのだろうか。記憶が曖昧だ。何をしていたのだったか――ユルはうっすらと目を開き、手元を見る。何かが手にこべりついている。これは、なんだ。

 

(これは……乾いた血と……肉片?)

 

 べっとりと手が赤く染まって、何かが絡まっている。そう、まるで人間のはらわただ――ふと、ユルは不鮮明な視界の端で何かが倒れているのを認めた。

 黒黒とした鋼の如き狼だ。首の肉をごっそり失って、血の海の中に倒れている。

 その口元には噛み砕かれた人間の頭部。あれは目と鼻だろうか。下顎がないし、肉が引き千切られている。その周囲には飛び散った肉片が見受けられる。ユルがそれらがを自分の頭だと理解するのに、僅かの時間を要した。

 

(そうだった)

 

 最後の最後に動けなくなって、頭をやられたのだった。狼は後すぐに力尽きたのか。そしてこの手に絡まっているのは、己の腸だ。自らで引き千切ったのだった。

 ようやく視界の揺れが収まり、ユルは顔を上げる。何処か遠かった意識が確かになり、ようやく視界も明瞭になっている。ゆえに、今度ははっきりとツェツェグの顔を見ることができた。

 

 ツェツェグは震えながら言う。

「あ、あんた……何なの?兄様はあんたのを知っているの?」

 それ、とはきっと生き返る体質のことだろう。ユルは僅かに目を伏せ、言葉を返す。

「うん。すでに見られてる」

 あ、話せるようになってる。ユルは思考の片隅でようやく気がついた。

(いい感じにのかな) 

 理由は判らない。何故か一部分の怪我が治らないことがある。その部位の根本から叩き落として再生しても、何故かそのまま残るのだ。そんなときは、その傷のある箇所のみを切除すると、元通りになる。

  

 ユルはゆっくりと瞬き、ツェツェグを見据える。

「だから、おれはここへ連れてこられたのだと思うよ」

 ツェツェグの、あの男そっくりの顔がいっそう歪められる。

「なのに、何故?何故あんたみたいのが野放しにされているのよ」

 ようは、危険なものは繋いでおけ、と言いたいのだろう。そんなことを言われたこともあった。それはいつだったか。思い出せないが、おそらくあの地下牢へ留め置かれる前くらいの頃だ。もはやその時の景色もその時の会話も定かではない。

 ユルは結ばれていない白髪の一束を指で絡め、弄ぶ。

「さあ……それは、おれも知らない」

「タルカン兄様はいつも、大切なことを黙ってばかり……それともあんた、妙な術でも使ったの?」

「おれはそんな、不思議な技は使えないよ。ただの人間だもの」

 

「人間?人間は生き返ったりしないわよ――化け物!」

 

 化け物――それも、聞き慣れた言葉だ。でもなんだか、いつもよりも冷たいもののように感じる。ユルは己の髪に触れる手を下ろし、胸元をぎゅっと掴む。

(なぜ?)

 胸の奥がズキンとする。少しだけ鼓動が速くやったような気もする。

(なぜ?)

 脳裏で、ふとあの男の姿が思い浮かぶ。橄欖石ペリドットの三白眼の男。あの娘と似た、あの娘の実の兄。その男は常に穏やかで柔らかな眼差しを向けてくれていた。その男がふと、冷ややかな目で見下ろすのである。そして常に穏やかな低音を鳴らしていた声で言うのである。――化け物。お前は、人間ではない。

 心の臓がどくん、と跳ねた。さあ、と血の気が下がって視界が昏くなる。

 

(嫌だ)

 

 彼にだけは、そんな目を向けられたくない。そんな言葉を掛けられたくない。

 

 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 

 嫌だ――……。

 

 

「――ユル!」


 その男の声に、ユルはハッと我に返った。

 いつの間にか目の前には、ユルの両肩を掴み、じっとユルの顔を覗き込むタルカンの姿がある。肩をぎゅっと掴むその手は優しくけれども強い。そしてその橄欖石ペリドットはいつもの優しい様相を付していた。

「たる……かん?」

 ユルがしっかりと言葉を話したのに驚いたのか一瞬だけ目を見開いたが、すぐに冷静さを取り戻して、

「よかった。気が付いたか。無事か?何処か痛む場所は?」

 この男は馬鹿だ。何度だって蘇る者へいたわる言葉を掛けるなど。ユルは思わず小さく吹き出した。

(でも、悪くない)

 左右に頭を振ると苦笑して、

「大丈夫だよ。知ってるだろう、おれは『生き餌人いきえびと』だ」

 

「違う」

 

 そう何度も言葉を交わしたわけではないが、これまで聞いた中でも最も力強さのある声だ。タルカンはユルを抱き寄せ、力強く抱きしめて言葉を落とした。

 

「お前は人間だ。たまたまそういう体質をした、人間だ」

 

 タルカンの腕の中で、ユルは大きく目を見開いた。全ての時が止まったような気がした。胸の奥がじんわりとする。前よりもずっと熱く。そのせいか、何がこみ上げて来るものがある。これは何と言う感情だ?前からずっと続くその問いに答えはない。

 

「タルカン兄様!」

 タルカンの妹の声が、ユルを元の時の中へ呼び戻した。タルカンは庇うようにユルを背へ隠しツェツェグの方へ向き直る。

 ツェツェグは兄そっくりな三白の眼を吊り上げて、言葉を続く。

「どうして、黙っていたの。そんな化け物のことを。もしも母様や他の皆に危害を及ぼすようなことがあったら、どうするつもりだったの?」

「やめろ。ユルは人間だ」

「何を馬鹿げたことを――!」

 

「お前の妹の言うとおりだぞ、タルカン。俺からの命令を聞けぬと言うか」

 第三者の声が差し込まれ、その声主の姿にタルカンは眼を見開いた。

 

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