第12話 予兆の前夜(2)


 鋭い痛みが、腕に走り、脳髄を焼いた。これまで何度も肉を斬られて来たが、比べ物にならないほどの激痛だ。

 

「う……」

 

 小さく呻く。

 狼は黒い眼をぎらぎらさせて、ユルを飲み込もうとしている。ユルは空いている方の手で思い切り、その鼻面を殴りつけた。

(あ、当たった!?)

 拳をふるった当人が一番驚いた。ツェツェグの斧は通り抜けてしまっていたのに、何故。狼も面食らったらしく、口を開ける。ユルはその瞬間を見逃さず、咄嗟に噛まれていたほうの腕を引き抜き、後退した。

(どうしよう)

 相手は驚きはしたが、別に致命傷を負ったわけではない。むしろいっそう怒りを増して、ユルに飛びかかる好機タイミングを虎視眈々と狙っている。ユルは戦士ではない。隙なんていくらでもあるわけで、狼はすぐまた、飛びかかってきた。

 

「ユル!」

 後方にいたツェツェグが悲痛な声を上げる。もし今逃げたら、ツェツェグへ狙いが変わってしまうかもしれない。己は死んでも死なないが、彼女は異なる。

 だから、ユルは退かなかった。真正面から狼を腕で受け止め、転倒する。

「うー!」

 ユルはじたばたと暴れて、藻掻く。だが逃さんとばかりに狼の足がユルの腹に伸し掛かる。あまりの重量に腹が押し潰されそうだ。

 ユルは嘔吐感でゲホッと胃の中にあったものの一部を吐き出した。寝転がっている状態のせいか、その嘔吐物が喉を圧迫して呼吸を困難にさせる。

 さらにその息苦しさを追い立てるように、狼の前足が胸のあたりを踏み付けた。

「ゲホッ!」

 

 苦しい。

 

 最後に苦しかったのは――昨日だ。心の臓をくり抜かれたとき、肺も一緒に破られて。あれは苦しかった。

 

 ――違う。

 

 今はそんなことを考えている場合じゃない。何とかしなければ。ツェツェグは腰を抜かしたのか、逃げてくれない。

 

 ユルは渾身の力を込めて上体を起こし、狼の前足を払いのける。狼はいけない、と思ったのか咄嗟にユルの両足を踏み付けて逃さぬようにする。――だが、ユルは逃げるつもりなど毛頭ない。

(いつだったっけ)

 昔、相手は狼でなくて人間だったけれど、何人かだけ殺したことがある。あの時も無論、武器なんか持ち合わせていなくて。持っているのは身體だけだった。だから、目を潰したあと、やってやったのだ。

 勢いよく回復した腕を振り上げるや、ユルは狼の片目を突いた。その眼球は想像以上に硬く、なかなかに貫けなかったが、それでも懸命に腕を突き出し、黒い眼球を突き抜く。狼が痛みで僅かに怯むと、今度は懐へ潜り込み、首元へ噛み付いて狼を押し倒した。

 

 ギャン!

 

 狼が叫ぶ。

 鋼のような体毛も矢張り難儀し、噛み付いている最中に顎を砕いてしまう。だが、それは然程問題ではない。その程度ならばすぐに回復する。顎が治ったらすぐにまた力を込め――それを繰り返すこと数秒後にはユルはその首の肉を噛み千切っていた。

 顔全体が生暖かく、鉄錆臭がして気持ち悪い。だがユルは動きを止めない。露わになった肉の部分を手で掴み、もう片方の手で力強く。火事場の馬鹿力もいいところで、ぶちぶちと肉と血管の引きちぎれる音が鳴り響くと同時に血潮が吹き出す。

 

 狼はのたうち回った。首は急所だ。

 暴れまわって、前足の鋭い爪がユルの腹を内臓にまで届くほどに深く穿ち、裂く。その爪に肉やはらわたが絡まって引きずり出される。

(あと、少し)

 狼には自己治癒の能力はないらしい。首の肉を削がれても治る気配がない。それに対して、ユルは少しずつ回復する。腹はさすがにすぐに治らないが、それでも血はすぐに止まる。激痛に耐えねばならないが、これは大きなアドバンテージである。

 

「うあ!」

 

 ドンッと腹に衝撃を受け、ユルは思わず叫んだ。後ろに突き飛ばされ、体勢を崩す。それでも、首の肉だけは掴み、そのよろける力も加えて思いっきり引き千切る。

「ゲホゲホッ」

 地面に叩きつけられて、ユルは咳き込んだ。首から滝のような血を溢れさせながら、狼がゆらゆらと歩き寄って来る。

(動けない……)

 足の骨を砕かれたらしい。ユルは腹を押さえながら、狼を見据える。狼は大きく口を開け、ユルへまた飛びかかった。――あ、間に合わない。

 

「ユル――!」

 ツェツェグの声が鳴り響く。だが、ユルの意識はそこで途絶えた。

 

 そのおぞましい光景に、ツェツェグは茫然とした。ユルの顔の大半が、無くなった。頭から齧り付かれて、噛み千切られたのだ。ユルは下顎だけを残して、力なく崩れ落ちる。

 だが狼もそれと同時に崩れ落ちた。最後の力を振り絞ったのだろう。赤い血の海の中で勢いよく倒れ込んだ。

「ユ……ル……?」

 しんとした静寂が、本来の夜の静けさが戻る。ツェツェグはふらふらと、ユルのしかばねのそばへ歩き寄る。

 

「ツェツェグ――!ユル――!」

 

 鳴り響く男の声に、ツェツェグはハッとする。兄タルカンだ。声のした方角を見れば、遠くから数人の人影が見える。タルカンと、チヌアを含むタルカンの部下たちだ。その後方に母ホンゴルズルの姿もある。もしかすれば母親があの後すぐに兄の元へ走ったのかもしれない。

「兄様……母様……」

 ツェツェグは震えてまともに声が出せない。どうしよう、化け物が。化け物が、ユルを食べちゃった。頭は真っ白で、思考が纏まらない。

 

「う……」

 

 突然すぐかたわらで鳴らされたその声に、ツェツェグはヒュッと息を呑む。聞き覚えのある、あどけなさのある声。

 おそるおそる振り返り、ツェツェグは目を見開いた。

「え……?」

 黒黒と赤い血溜まりの中。

 顔を失ったはずの少年が、身體を起こしていた。肉の露わになった顔をして。パキパキと音を立てて、その表面に赤銅色の皮膚が生じて這って行く。

「ウソ」

 ツェツェグはそのおぞましい光景から目を離せない。ざんばらに長い白髪も生え、元の長さ――いや、それよりも少し長い――になる。

 少年はまた小さく呻きながら、自ら腹の穴に手を突っ込み、中途半端に投げ出された肉やはらわたをすべて外へ引きずり出し、ブチッと厭な音を立てて引き千切る。すると、その腹の肉も顔同様に肉が、皮膚が生成されて穴を埋めていく。

 

 そして。

 

 少年ユルはゆっくりと瞬きをすると、ツェツェグへ視線を向け、口を開く。

「だいじょうぶ?」

 

 しっかりとした言葉の形をとって、その声は鳴らされた。

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