弐章

第11話 予兆の前夜(1)


 遠くで風が唸るような音が鳴り、タルカンたちの天幕の中で、ユルは顔を上げた。

 

 何の音だろうか。厭な音だ――だが己のそばで食卓を囲う者たちは気に留めた素振りもないので、危険なものではないのかもしれない。

 ユルは手に持った器へ視線を落とし、ふうっと息をかけて冷ます。夕飯のスープだ。パンは今さっき始めてみたので一瞬戸惑ったが、それでもすぐに食べ方を理解した。おかげでたった一日でちゃんとした食事の仕方が身についてしまった。

 

 すると不意に、ツェツェグが声を上げた。

「兄様ったら。仕方ないとは言え、家族との食事を後回しにしてノランバートル様のところへ行っちゃうなんて。冷たいわ」

 彼女の言う通り、天幕へ辿り着くや、あのチヌアとかいう魚露目の部下に呼び止められ、その足で出掛けてしまった。そしてその突然の呼び出しへ赴いたきり、戻って来ない。

「おうあう?」

 よくあるのか、と聞いたつもりなのだが、この舌では限度がある。身振り手振りをしてもみるが、頻度を尋ねるジェスチャーはこの上なく難しい。そこは年嵩のあるホンゴルズルが音から「ううん?」と考えて察してくれた。

「よくあるのか、て聞きたいのかしら」

 ホンゴルズルの言葉に、こくこくとユルは頭を縦に振る。タルカンといい、察しがよくて助かる。

 なるほど、とツェツェグは呟くと、そのまま言葉を続ける。

「しょっちゅうよ。兄様てば、ああ見えても宗主様のお気に入りだから、息子のノランバートル様にはあまり気に入られてないの。だから、事あるごとに難癖つけて呼び出しよ」

 

 ユルは小首を傾げる。何故、気に入られると気に入られなくなるのだろうか。そもそも人間関係に悩む機会もなかったので、その複雑な感情など理解できようはずもない。そんなユルの様子をツェツェグたちには言葉が通じていないと捉えたらしく、別の意味で彼女たちも頭を捻り出した。

 

 だが、女たちはすぐに考えるのを止めた。ツェツェグはさっと立ちあがり、

「今の、ジベックの声じゃない?」

 ユルもツェツェグと同じように天幕の入口付近へ視線を向ける。

 牧羊犬のジベックが執拗に吠えている。威嚇した吠え方だ。ジベックは羊たちの番をしているはずなので、羊たちに何かあったのかもしれない。――泥棒か?

 ツェツェグは天幕の隅に立て掛けてあった斧を持ち上げて言い放つ。

「母様、私ちょっと見てくるわ」

「ちょっとツェツェグ、ダメよ!タルカンを呼ぶべきよ!」

「そのタルカン兄様は一番離れた天幕に呼ばれてるじゃない」

 すかさずツェツェグが言い返す。斧を強く握り、土色の三白眼を爛々と燃やしている。血の気の多い女だ。母親のホンゴルズルが蒼白顔になっているのも構わず、つい、と視線を逸らしてさっさと天幕を飛び出してしまう。

 

 咄嗟にユルはツェツェグの後を追って天幕を出た。

「ええう!」

 ツェツェグ、と呼んだのだ。これはもはや何度も呼んでいるので、すぐに理解されたらしい。振り返ることもなくツェツェグは一喝する。

「ユルは天幕の中にいなさい!」

 そういうわけにもいくまい。斧を持って今にも人を殺しそうな気迫のあるツェツェグをとにかく追いかけた。

 外へ出てみると、昊にはすっかり夜の帳が下ろされていた。真玄まくろに塗り込められた天上に、白星の残光を灯す星星が散らばって、ちらちらと瞬いている。昼間とまったく異なる。まるで別世界みたいだ。でも――その夜の様相に、ユルは息を呑んだ。

 

(どこかで、見たような……)

 

 思い出せない。だがその思案はすぐに打ち止めされる。羊たちのいるあたりは何だか冷たい空気が流れていたのだ。牧羊犬ジベックの件が無ければ近寄りたくもないような、おどろおどろしい冷気だ。この平原は確かに夜になれば冷え込むとは聞いていたが、そういう類のものではないように思われる。

 

(なんだ?)

 

 全くジベックの声がしない。そのことにツェツェグも気付いたらしく、斧片手に声を張る。

「ジベック?どうしたの、ジベック!」

 そして柵の向こうにいる羊たちのそばへ寄ろうとする。だがその瞬間、ユルの脳裏に厭な予感が過ぎった。そして無意識にツェツェグの腕を掴んで留めた。ツェツェグは驚いたように三白眼をきょときょとさせている。

「え?どうしたの、ユル?」

 ユルはじっと羊たちの向こうの、ずっと先の暗闇を見た。一見、何も無い。だが、何かがそこにいる――ユルの視線を辿っていたツェツェグが突然に「ひっ」と小さく叫んだ。

 

「お、狼……?」

 

 暗闇の中。そこには。黒黒とした獣の姿があった。

 

 眼まで黒く鋼のような黒い体毛を有する、岩のように大きな狼が一匹。研がれた刃のような鉤爪のある足は地と同化している、闇を具現したような狗だ。

「もしかして、ジベック……」

 あの狼に喰われたのか。ツェツェグは蒼然とする。そのむくろを見付けたいところだが、そんな余裕はない。ツェツェグはガクガクと膝が嗤っているのを感じる。恐怖で、動けない。

 その狼は鈍く光る鋭い牙を剥き出しにして、風が唸るような、そんな咆哮を上げると、こちらへ突進して来た。

「ええう!」

 ユルは叫んで、ツェツェグの腕を引く。だが、ツェツェグは茫然自失して動かない。ユルは狼とツェツェグを見比べる。どちらにせよ走って間に合うようなものではないが、それでも動いてもらわねばならない。

「ええう!」

 しっかりしろ、と声を張る。ツェツェグはようやく我に返ったらしく、

「に、逃げなきゃ」

 と声を上げる。

 だがすでに遅くその奇妙な狼はすぐ目の前に迫っていた。妙な方向に腹を括ったのか、ツェツェグは唇を噛み締め、斧を握り直す。

「ユルは逃げなさい」

 そう告げると、ツェツェグは斧を振るった。そんな馬鹿な、と叫びたくなるような覚悟である。――だが。

「ウソ!?」

 ツェツェグは叫んだ。斧がするり、と狼の鋼のような身體をすり抜けたのだ。避けられたのではない。本当にただ、言葉通りにすり抜けたのだ。

 

 ――危ない!

 

 ユルは咄嗟に、ツェツェグを思い切り突き飛ばした。ツェツェグが小さく声を上げたと同時に、ユルは反転して、狼へ腕を突き出して押し留める。

 ツェツェグはその、色は異なるが兄そっくりな三白眼を見開き、つんざくような声で叫んだ。

 

「――ユル!」

 

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