第10話 新しい言葉と世界(2)


 柵で囲った場所まで牧羊犬のジベックとともに羊を追うツェツェグの後ろを、ユルとタルカンは付いて歩いていた。白星はちょうど天頂から少し西に傾き始めた頃である。


 群青にはもくもくと雲が立ち籠めていた。だが虹鷹が虹の輪を掛けていないから、雨は降らないのだろう。


 あの三色の飾り尾で白星の周囲へ輪を描いたら、雨が降る予兆となるらしい。ツェツェグから学んだことだ。ユルは雨というものを見たことがないので、是非見てみたいと思ったが残念。

(見ることもなく、元通り、かな)

 敢えてすっとぼけて見せたが、タルカンが何かを隠していることはお見通しであった。仏頂面のように見えて、タルカンは思いのほか判り易い。

(でも、あったかいのは、よかった)

 タルカンの家族は皆あったかい。穏やかな目をして、ユルを一人の人間ひととして扱ってくれる。

 

(ずっとこのまま時が止まって、そのまま終わってしまえばいいのに)

 

 そう、願わずにはいられない。きっとこれから先、そんな幸運には恵まれないだろうから。

「そう言えば」

 切り出したのは、橄欖石ペリドットの三白眼を有する男である。ユルは振り返って小首を傾げて見せる。

「お前は三つの時に売られてきたとあの腕を切られた男から聞いた」

 ああ、あの初老の……シュウジュという男か。ユルは何となく彼が自分のことをペラペラと話したのだろうと察した。

(あいつも連れてこられたのかな)

 たぶん、そうだろう。意識を失っていたゆえ、その一部始終を見ていないが、ユルのことに一番詳しいのはシュウジュだ。ユルを買った本人で、ユルについて調べる際にも指示を出していた。確か、「村長むらおさ」と呼ばれていた。

 ユルがあまりに沈黙していたので気分を害したのかと思ったのかタルカンは、

「すまない」

 と言葉を加える。そうではない、とユルは慌てて頭を左右に振った。ただ、あのシュウジュという男が好めず、思い出すとモヤモヤしただけだ。あの道具を見る、ギラギラとした冷たい目。あれは苦手だ。

 

 タルカンは顔を曇らせ、絞り出すように言葉を鳴らす。

「……帰りたくは、ないのか」

 

 ユルはきょとんとした。何処へ帰るというのだろうか。地下牢か?でも彼がそんなことを聞くとはとうてい思えない。ユルが困惑顔を浮かべていると、タルカンは眉間を押さえて、

「家族の――同胞のいる故郷へは帰りたくないのか?」

 と言い換えた。

 家族。故郷。もはやそんなものがあったことすら、ユルは忘れていた。十年以上の歳月をあの薄暗くて痛い場所で過ごしていた。

 そんなユルの表情を覚ったのか、タルカンは「いや、いい」と言ってユルの頭を優しく撫でた。 

「……すまない。そんなに幼い頃のことだと、顔も景色も覚えていないだろうが……帰してやれなくて悪いな」

 そう覚えていない。そもそも。

(家族なんていたっけ)

 タルカンやツェツェグたちをみて、人間ひとにはこんな繋がりがあるのだと知った。でもそれが己にもあったのと問われれば、まったく思い当たらない。それに故郷だって……。

 

 ふと、ユルは思考を留めた。

 

(ちがう)

 ひとつだけ、覚えているものがある。

 この草原のように色鮮やかな場所ではない。むしろ、地下牢に近しい場所。何処までも、何処までも続く無色の平原。下ばかり見ていたのか、その色のない砂の地しか覚えていないが。

(あれは、何処なのだろう)

 ユルは目蓋を下ろしてみた。つい先程まで眩しい白光びゃくこうに照らされた場所を見ていたせいか、目蓋の裏にはチカチカと白くて小さな残存が明滅している。――これじゃない。

 

 時おり、夢に見た。

 

 黒一色で、風すらも吹かない。何処からが自分で、何処からが自分でないのかもわからない。均一な、黒い砂原。

 そう、まるで。目蓋の裏を下ろせば必ずそこにある、常闇とこやみのような。ふと、ユルは眼を開いた。

(あれ、おかしいな)

 いつもの暗闇が思い浮かび上がらない。思い浮かぶのは、女たちの鮮やかで賑やかな声と――微笑みかけているタルカンの穏やかな橄欖石ペリドットの三白眼。

 

「きゃ……!」


 突然に響いたツェツェグの短い悲鳴に、二人の男たちはハッとした。

 前方を見れば、尻餅をついている娘の姿。何か驚いているのだろうだ。牧羊犬のジベックを前に、ツェツェグは少しだけ後退っている。

 急ぎ駆け寄って、タルカンは妹に声を掛けた。

「どうした?」

「あ、兄様。その……なんか足元にネズミがいて、ジベックが捕まえたのよ」

 ツェツェグは振り返って、兄タルカンを見る。少しだけ涙目になって、顔を真っ白にしている。

 彼女は高々ネズミに怯えるような娘ではない。タルカンは「ネズミ?」と眉を顰め、ジベックの加えているものを見た。

 

「気味の悪いネズミだな……」

 大きさとしては、大人の人差し指程度。 ぎょろぎょろと大きな、黒いひとつを有している。きいきいとそのネズミは鳴きながら、ジベックの口元でじたじた暴れている。

 ユルはネズミ自体を見たことがないが、それは何処かおぞましい気配を纏っていた。ユルは無意識にそのネズミを睨みつけ、「うー!」と威嚇する。


 さらに牧羊犬のジベックがネズミをツェツェグの近くまで運ぼうとしてきたので、

「ぎゃあああ!ジベック!こっちにその気持ち悪いの持ってこないで!」

 と言って兄を盾にする。ジベックとしては、ご主人に獲物の自慢しているのだろうが――タルカンの傍らで未だにユルが唸っているわけだから、状況がだんだんにカオスとなりつつある。


 タルカンは頭を抱えるとジベックの頭を撫でて、

「よくやった、ジベック。でもそんなもの、捨てなさい」

 やっと解放されたネズミは密かにタルカンが処分した。ネズミの処理を終えるとタルカンは二人へ視線を向け、ひと言。

「ほら、帰るぞ。母上が心配なさる」

 はあい、とツェツェグが答え、ユルもこくり、とひとつ頷いて応じる。気がつけば、だいぶ白星しろほしが西へ傾き、昊がじんわりと橙になりつつある。

 タルカンやツェツェグが帰路につき始めたその瞬間。一瞬、ユルは足を止めた。何となく気になったのだ。振り返ってあのひとつ眼のネズミの死骸を見ると、そのネズミは黒い眼球もろとも頭蓋を潰されていた。ゆえにもう、動かない。ユルは暫くじっとそのネズミのむくろを見詰めた後――踵を返して、タルカンたちを追った。

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