第09話 新しい言葉と世界(1)
群青の昊高く白星が瞬き、虹鷹が白星に赤、青、緑の三色の輪を掛けて雨を報せる大地で、草原の民たちは羊を放ち、追い、そして旅をする。
それはタルカンの家族も同様で、ユルは岩場に腰掛け、ぼんやりとタルカンの妹ツェツェグが牧羊犬のジベックと共に羊たちを導いているのを眺めていた。
「ユル!こっちへいらっしゃい!」
ツェツェグは手を振り、草原の民の言葉でユルを呼ぶ。あの娘は異国語を話せないのだ。ユルはきょとんとしながらも、耳で聞き取った音を噛み砕いてみる。
(あれは確か、「こっちへ来い」だ)
ユルはやおら立ち上がり、応える。
「あい」
「はい」と言ったつもりである。駆け寄ってみると、ツェツェグは満足そうにしているので、正解だったらしい。
わん!
牧羊犬のジベックが吠えると、尾を振りながらユルを迎えてくれた。
ジベックはもこもこの白い毛皮の大型犬で、年老いた雌犬である――などとはユルが理解できるはずもないのだが、ジベックは泥棒でない者には心穏やかな性格をしていることだけはユルにも解せた。
ふふ、とツェツェグは笑うと、羊を、そしてその向こうに続く草原や木々を指さして言う。
「ユル、これは「羊」、あれは「草」、あれは「木」よ」
「あえあ?」
あれは?とユルが昊を指差す。そこには、雲が流れ、その合間を縫うように虹の飾り尾を持つ鳥が悠々と旋回し、その真ん中で白い星が燦々と照りつけている。
「あの広いのが「昊」で、あの白くて、眩しいものが、「
嬉しそうにツェツェグは言う。言葉が通じていると確信したのだろう。ユルは目を瞬かせ、昊を彩る者たちを再び見た。――昊、白星、虹鷹。広い、白い、眩しい。知らない単語がたくさんだ。
「ああ……あえあ?」
じゃあこれは何と言うの?と今度は行動を指す単語を問う。それに対し、ツェツェグも身振り手振りを付けてゆっくりと言葉を継ぐ。
ユルはだんだんに、草原の民の言葉の区切りやその抑揚の付け方の意味も理解しつつあった。元々、最近まで聞いていた黒装束たちの言葉だって教わって覚えた訳では無い。長い間ずっと目で見て耳で聞いてものにしたのだ。
「ツェツェグ、何やってるんだ」
不意に深い男の声が差し込まれる。
振り返ると、ユルの後ろには用事を済ませたらしいタルカンの姿がある。
「タルカン兄様、お帰りなさい。ユルに言葉を教えていたのよ」
「言葉?また突拍子もないことを……」
静かな
「おあえいああい」
お帰りなさい、と言ったつもりである。だがどうやらタルカンに伝わったらしく驚いたように目を点にして応じた。
「ああ……ただいま」
「ふふ、凄いでしょう。ユルったら賢いのよ。お願いしたらその通りにしてくれるから、ほとんどこっちの言葉を理解してるみたい」
「それは確かに凄いな……て、お前。変なお願いはしてないだろうな」
「逆立ちくらいはしてくれたわよ」
「何してるんだお前は」
すかさずタルカンはツッコんだ。妹は何かやらかしてはいないかと懸念はしていたが、斜め上の方向を行くやらかしである。だが当の妹は頬を膨らませて、
「だって、通じてないと思ったんだもの」
通じてなければ冗談を言っていいのか。ツッコミどころ満載だが、言い出したらきりが無いので、タルカンは口を噤む。
すると、「そうだ!」とツェツェグが手を叩いて声を上げた。ユルは驚いて目を瞬かせ、彼女を見た。
するとツェツェグはグイッと兄タルカンの腕を引き寄せ、得意そうに胸を張る。
「タルカン兄様は宗主様を入れて、二人目の「色持ち」なのよ!」
「?」
「綺麗な緑の目でしょう?草原の民で色持ちは、今、二人しかいないのよ」
色持ち。ユルはその言葉を初めて聞いた。きょとんとして、
「うー、おおいおいあ?あいいお?」
さすがに通じず、ツェツェグが顔を引き攣らせている。ユルは唸って考え込む。先に覚ったのはタルカンだった。
「宗主様は燃え盛る炎に似た、赤色だ。長子のノランバートル様もあと少し色が鮮やかであれば、宗主様同様に色持ちと呼ばれたのだが。色持ちの条件には濁りが少ないことを含む」
背の低いユルと目を合わせるようにタルカンは屈み、彼の瞳をよく見せるようにする。
「己の目はよく見えないから何とも言えぬが……光で照らした時、真水のごとく透き通っているのが色持ちの条件らしい」
「うー」
ユルはタルカンの顔をガシッと両手で抑えてじっとその
タルカンはその近過ぎる距離にたじろぎ、少しだけ目を泳がせる。
「……ユル、そろそろ手を離してはくれまいか」
「うあ」
少しだけ不服そうにユルは離れる。
そんなユルの後ろからひょこっと妹のツェツェグが顔を出して、兄タルカンへ問う。
「兄様、今日はずっとこっちにいるの?」
「ああ――……」
答えようとして一瞬、言葉を詰まらせる。ユルを見て、三白眼を少しだけ揺らがせた。ユルは小首を傾げ、無言で「どうした?」と尋ねる。
きっとこの幼く見える少年が自由を謳歌できるのも今晩までだ。そのことが、タルカンの声を滞らせる。ツェツェグは不審そうに兄を見て眉を顰める。
「兄様?」
「いや、なんでもない。明日の朝までは少なくともこっちにいる」
「やった。力仕事押し付けちゃおう」
本人の前でそれを言うのは如何なものかと思われるが、力仕事とは水汲みなんかのことである。タルカンの家には年老いた母親の他には彼女しかいないので、自然と家の切り盛りはツェツェグの専任となってしまっているきらいがある。
「……どうせお前、すでにユルにやらせただろう」
「あ、バレた?」
わん!
牧羊犬のジベックが合いの手をいれる。一応客人扱いの者の手まで借りるとは。図々しさはピカイチな妹であった。
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