第05話 穏やかな瞳の人たち(1)

 名無しが目を醒ますと、そこは知らない場所だった。

 

 いつもの薄暗く、寒い地下牢じゃない。

 白い布の張られた天井からはうっすらと陽光が差し込み、視線を横へ移すと、色鮮やかな布の敷き詰められた一室が映し出される。すべて細やかな刺繍の施された布だ。

 

(ここ、どこ?)

 

 のろのろと上体を起こし、周囲を見渡す。

 黒装束の姿はおろか、誰ひとりの姿も見当たらない。不思議なへやの、焚き火の前に横たえられていたらしい。相変わらず着物を纏っていないが、首や手足を繋ぐ枷もない。ゆえに、手足を自由に動かすことができた。


(あれが出口かな)


 僅かに風を通し、揺らいでいる垂れ幕がある。赤と青、緑の糸で描かれた不思議な生き物の文様の施された垂れ幕だ。あの、ぴーひょろろと鳴いた生き物に似ているような気もする。

 名無しはゆっくりと立ち上がり、ふらつきながらもその垂れ幕へ歩き寄った。


 すると矢庭に、その垂れ幕が横へ引かれた。

「!」

 吃驚して思わず、尻餅をつく。茫然として見上げると、そこには、二人の女の姿があった。二人とも土色の髪に土色の瞳をした女だ。少し、上背があるように思える。

 片方は皺くちゃの顔をした、けれどもクリっとした目の愛らしい女。もう片方は、十代半ば程度の、三白眼気味の眼をした若い娘。こっちの娘は誰かに似ているように感じる。

 

 両の女は暫く目を瞬かせ、名無しを見詰めていたが、ハッとしたように年増の女が明るい声を上げた。

『……あらまあ!起きたのね!』

「?」

 何を言っているのか解からない。名無しは眉を顰めてきょときょとする。

『知らせてくるわ!』

 もう片方の、若い方の女も声を上げる。娘の方は慌てたようにまた室外へ走って行った。

『そうだったわね。異国の子だもの。言葉が通じないのよね……』

 

 ふむ、残された女は呟くが、気を取り直したように名無しの背を押して、

『とにかく、着替えましょう。チャガタイの坊やのものを借りてきたのよ』

 さっぱり何を言っているか理解できないが、女がおもむろに衣服一式を引っ張り出してきて押し付けてきたので、何となく「着ろ」と言っているような気がした。

 その衣服を受け取って持ち上げてみると、ゆったりとした赤色の詰襟服と土色の長ズボン。だが物心ついてからこの方服というものを着たことのない名無しには、それはどうやって着るものなのか想像もできない。


 ぽかんとしていると、それを察したのか女がそっと寄って声を掛ける。

『異国の服の着方はわからないわよね。さ、私が着せてあげましょう』

「う?あ?」

 無論、女の言葉が通じるはずなく、名無しは疑問符ばかりが増やされる。

 すると、突然に腕を持ち上げられ万歳ポーズをさせられたかと思うと、あれよこれよという内に着替え完了。気が付けば、焚火の前に座らされて、髪を櫛で梳かれていた。

 

(このひと、似てる)

 

 何となく、そう思った。黒目がちだが、その穏やかな眼差しが、あの橄欖石ペリドットの三白眼に似ている。

『さあさあ、できましたよ』

 何を言ったのかは分からなかったが、身支度の終えたことは解かった。ばさばさの長い白髪は油を馴染ませて、綺麗に頭頂で束ねられ、下ろされている。


『母上、起きたとは本当ですか!?』


 突然に室内に鳴り響く男の声に、名無しは大きく目を見開いた。

 振り返れば、垂れ幕の前にあの三白眼の男と先程の若い娘の姿がある。走ったのか、ぜえぜえと息を切らせて。なるほど。あの娘はあの男に似ていたのだ。並ぶとそっくりなのがより際立つ。

 男は名無しへ足早に近寄ると、

「無事か?何処か痛む場所は?」

 と理解できる言葉で尋ねてくる。

 名無しは困惑した。その初めて会った頃と変わらない、暖かな橄欖石ペリドットの三白眼に。――彼は名無しの首が切断された瞬間を見ていたはずなのに。あの首を落とされた時に覚悟した。次に目を覚まして出会ったら、あの目を向けてくれないだろうと。なのに。

 

(どうして?)

 

 どうして、あの黒装束たちのような目で見てこない。どうして、変わらず優しい眼差しを向けてくれるのか。

 すると、その三白眼の男は屈み、名無しの顔を覗き込んで続けた。

「どうした?何処か具合が悪いのか?」

 心の底から案じてくれているような、そんな目だ。名無しは混乱して、声も出せない。どうして、ということばかりが先行して、それ以外のことなど考えられない。

 

 そんな名無しを不安がっている、と捉えたのだろうか。男はおもむろに大きな手を名無しの頭に乗せて、よしよしと優しく撫でる。――暖かい、手だ。

「ここは私の家だ。処遇が決まるまで、私が預かることになったんだ」

 家とは、何だ。ここのことか。名無しはさらに困惑する。その家とやらに何故置いてくれるのか。何故、どうして?

 けれども、その疑問はすべて掻き消される。男の柔らかに細められた橄欖石ペリドットの三白眼が、すべてのことをどうでもよい、と考えさせるのだ。この穏やかな眼を向けてくれさえしてくれれば、と。

 男はゆっくりと優しい低音で続ける。 

「だから安心するといい。今ここではお前を傷付ける者はいない」

 名無しは胸の奥がじんとするのを感じた。――これを何と言う感情なのか、名無しには判らない。

 

 不意に、あの年寄りの女が口を挟んだ。

『タルカン、私たちをお客人にちゃんと紹介してちょうだいな』

『ああ、そうだな』

 と何か言い切ると、男はおもむろに橄欖石ペリドットの三白眼を向けて、

 

「私はタルカンという。こちらは母親のホンゴルズルと末妹まつまいのツェツェグだ」

 

 タルカン。時々聞こえたその言葉は名だったのか。名無しは目を瞬かせ、タルカンやそれ以外の女たちを見た。

 だが困った。

「うーあー」

 名乗る名などないが、それを伝える術がない。

 そのことにタルカンも心付いたのか、困った顔で、「しまった、話せないのだった」と呟いた。

「うー……」

 舌の先を切り落とせば元通りになるのだが、この男にその選択肢はないらしい。

 するとふと、タルカンは名無しの頭をまた撫でて、

 

「お前はとりあえず、ユルという名にしよう」

 

「うー?」


「地平線の向こう側、という意味だ。君は西の彼方向こう側で生まれたのだろうから」

 

 少年は名無しでなくなった。

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