第03話 外の世界(1)


 橄欖石ペリドットの男に手を引かれ、名無しは己を留めていた室から続く長い廊下を歩いた。松明の灯りだけが頼りで、周囲の様子がよく見えぬが、土で塗り固められた一本道であるということだけは解された。

 ゆらり、と松明の炎が揺らぐ。

 その先には傾斜の急な階段があった。人間ひと一人ぶんくらいの細い階段だ。いったいそれが何処まで続いているのか定かではないが、三白眼の男がゆっくりと上り始めたので、名無しも続く。

 静かだ。

 二人の足音だけが木霊して、いつもの室とよく似た何処か冷たい様相のある場所だと感じられた。きっと、何処もこんな寂しくて寒い場所に違いない――名無しはそう思った。

 

 だが、階段を上がりきり、目映い陽光が燦々と差し込む外を初めて見て、名無しの世界は一変した。

 

(まぶしい)

 ちょうど、天頂に燦々と輝く白い星が届いた頃だ。

 さわさわと、何かの擦れるような穏やかな音があちらこちらから鳴らされ、出口を囲う木枠に留まっていた小さく奇怪な生き物がぴーひょろろと奏でて飛び去って行く。

 ずっと閉じ込められていた名無しは、それが木々の木の葉の立てる音であり、昊高く舞ったのが鳥であると知らない。昊にぽっかりと浮かぶ星だって、それを星とは知らない。


(なんだ、あれ)


 前方を見据えれば、茶色い何かを乗せた大きなものが点在している。それらは茅葺き屋根の家屋なのだが、無論、それすらも名無しは知らない。

 ここは、山奥の小さな村だ。田畑はなく、牧草地もない。そもそも、開けた場所がない。周囲を切り立った山々の岸壁と鬱蒼と茂る木々に覆われ、まさしく「孤立」した村。その一角の地下牢に名無しは長いこと幽閉されていたのだ。

 ふと、名無しは行く手に幾人の人影を認め、そしてまた新しいものを認めた。


(人間と……何だろう)


 もっとも大きな家の前に、村人と思われる、生成りの小袖服を纏った男女おとこおんなや名無しの前を行く三白眼と同じ筒袖服に身を包む男たちがいる。その筒袖の男たちは片手に一振りの剣を持ち、そのを縄で引いている。名無しは馬も知らない。だから、その濃茶で四脚の、鼻面の長い生き物が馬であると判ぜられない。

 

 前方を歩いていた橄欖石ペリドットの男は足を止めると、やおら己の羽織っていた白い筒袖の上着を脱ぎ、名無しへ被せた。

「それをやるから、着ておきなさい」

「うー?」

 男は上着の下にももう一枚、暗緑色あんりょくしょくの詰め襟服を着ていたらしい。だから気にせず着なさい、と男は言葉を繰り返す。名無しはキョトンとしてその頭から被せられた上着を片手で掴んだ。


(あったかい)


 どうやら身體が我知らず冷え切っていたらしい。上着に残された温もりが心地よい。外へ出るのも、誰かに着物を貰うのも初めてだ。

(この人間は、ぽかぽかする)

 あの宝石の三白眼も、その低く深い声も。上背だけはあるから、突然に詰め寄られたら驚くかもしれぬが、あの男は動きも穏やかなところがある。ゆえに、この男からは暖かばかりが感じられ、名無しは「安堵」という感じたこともない感覚に少しだけ、胸がどきどきした。

 

 不意に、家の前に集っていた筒袖の男の一人が不意に振り返り、三白眼を認めて大きな声を上げた。

『タルカン様!やっと地下から出てきたんすね!』

 喧しい声の男だ。土色をした魚露目の、そばかす顔の若者で、先程の灰白色の目の男と同じくらいの年格好。短躯チビで、痩せぎすの名無しより少し背がある程度だ。

 橄欖石ペリドットの三白眼はその男のそばへ寄り、低く言い放つ。

『チヌア、五月蝿いぞ』

『いやだって、ちっとも出て来ないから。何してんのかなって皆心配してたんすよ』

 魚露目の男に乗っかるように遠巻きに聞いていた男たちが囃し立てる。橄欖石ペリドットの男は少しだけ目を瞬かせて、

『それは悪いことをした』


 すると魚露目の男は名無しを認めて、ずかずかと歩き寄る。

『誰すか、そのガキ――って汚ねっ』

 大袈裟に両手を上げて退く。行動まで喧しい男だ。橄欖石ペリドットの男は眉間を抑え、呆れた風に息を落とす。

『さすがに無礼だぞ、チヌア。地下に繋がれていたんだ』

『へえ……こんなガキを。東方の人間はよくわからんことしやすね』

 喧しい男はずずいっと名無しへ寄る。その魚露目で、名無しをじろじろと見てくる。名無しは思わず、三白眼の後ろへ隠れた。

 何か厭だ。黒装束たちみたいにギロギロとした目はしていないけど。理由は定かでないが、不快だ。そんな名無しの眼の前で、その魚露目は言葉を続けた。

『西方のガキかあ。顔は悪くないっすね。というか別嬪さん?女のコみたいっす。この髪、脱色したんすかね。つうか何か血の臭いしやせん?』

 一気に捲し立てたと思えば、当の名無しを前に、顔を顰め、鼻をつまんでいる。


 三白眼ははあ、と大きく嘆息すると、その魚露目の男の頭上に思いっきり拳を下ろした。

『チヌア!』

『うぎゃっ……痛いっす』

 瘤のできた頭を押さえて、魚露目の男は唇を尖らす。少し離れた位置で集っていた他の筒袖の男たちがドッと嗤い、「この間抜けめ!」とばかりに指さしてはまた腹を抱えて転げる。

 名無しはきょときょとした。何を言っているのかちっとも解からない。三白眼の男を見上げると、彼はその橄欖石ペリドットを細め、「部下が騒がしくて悪いな」と言って名無しの頭を優しく撫でる。――部下ってなんだ?名無しはきょとんとした。

 

「ど、どうか!」


 矢庭に、村人と一緒に繋がれようとしていた一人の男が声を張った。

 初老の、黒装束だ。名無しはこの男を知っていた。名無しを切り刻むとき、男たちへ指示を出す立場の者で、確かシュウジュという名だ。

 シュウジュは筒袖の男の手を振り払い、地べたに這いつくばって言葉を続ける。

「どうか、村人たちの命だけは。どうかご慈悲を」

 だが、誰も応えない。そもそも、彼の言葉を理解できる者が少ない。ゆえに、シュウジュを見て眉根を寄せ、ひそひそと耳打ちしあうのみに留まる。

 それでもシュウジュは諦めず、勢いよく顔を上げ、名無しを認める。さらにシュウジュは立ち上がり、ついと名無しを指さしてさらに言葉を加えた。


「それを売ってやる。だから、どうか、村の者どもの命だけは!」

「……は?」

 応じたのは橄欖石ペリドットの男。眉根を寄せ、名無しを庇うように一歩前へ出た。

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