第02話 生き餌人と宝石の戦士(2)

『――なんだ?この部屋は』

 

 差し込まれたのは、あの黒装束たちのザラザラとした声と違う、深みのある声。何を言っているのか理解できぬ言葉だ。眩しさに目が慣れると、名無しはゆっくりと面を上げた。


(だれ?)


 年齢よわいは三十程度。黒装束たちと同じ薄橙の肌をしているが、見たこともない衣装を纏った男だ。

 襟元に赤、青、緑の糸の細やかな刺繍の織りなされた、筒袖で左衽さじんの白の衣を羽織っている。その衣を締める帯もまた刺繍の鮮やかなことで、短剣の収められた革鞘や小さな皮のポーチが吊り下げられている。土色のズボンの上には革のブーツが履かれ、いつも見かける男たちと比べ動きやすそうだ。

 帯と同じく刺繍の施されたつば無し帽から一本に編んで流されるのは鳶色の髪。そして何よりも。その切れ長のまなこの奥。静かな幽光ゆうこうを灯す橄欖石ペリドットの瞳に、名無しは目を離せないでいた。


(きれいだ)


 少し、三白眼気味だ。けれどもそれでも十分なほどに美しい。きらきら、仄かな光を弾いて。あんな鮮やかで、澄んだ色は初めてだ。名無しは座り込んだまま、手を伸ばす。

 すると、その男は僅かに眉を寄せて言った。

『異国の小僧わっぱ……?なぜこんな部屋に?』

 何かを聞かれているようだが、矢張りその意味を捉えられない。名無しは小首を傾げるのみで応じる。その橄欖石ペリドットの三白眼は暫し思案した面持ちをした後、ゆっくりと名無しへ歩き寄ると、


「この言葉は解るか?」

 と問うた。


 それは、あの黒装束たちが用いている言葉と同じものだ。これならば、聞き取れる。名無しは「是」と声でも返事してみる。

「うー」

 だが、舌を切断され、修復出来ぬようになされているため、言葉にはならない。名無しのその声を聞いて、眉間の皺を増やす。

「なんだお前。口が聞けないのか」

 違う。そうじゃない。名無しはぶんぶんと頭を左右に振り、口を開けて声を鳴らす。

「あー、あー、えー!」

 目一杯、舌を出し、枷で繋がれた手で懸命に指差す。初め、いったいこの男童おのわらわが何を訴えているのだろう、と男は眉を顰めていたが、ふとハッとしたように名無しの途切れた舌の先を見る。

「何とむごいことを……西方さいほうの者のようだが、お前は男妾なのか奴隷なのか――いったい何者なんだ?」

 男が名無しを西方さいほうの者、と表するのは、名無しの赤銅色の肌や彫りの深い顔立ちを見てのことだろう。だが、名無しは己が何処で生まれたのかを知らない。ゆえに、是とも非とも答えられない。


 小さく嘆息すると、優しい手つきで名無しの頭を撫で、男は言葉を続ける。

「……舌が切られているのは解した。だから、その口を閉じなさい」

 いや、そういうことを伝えたかったんじゃない。一応口は閉じるが、名無しはやや不服そうにする。そうではなくて、この金属の溶かし固められた部分を切り取って欲しかったのだ。さすれば、また再生して元通りになる。

 だがこの男は名無しの驚異的な再生能力を知らず、というか知るはずもなく、むしろその残忍な仕打ちに悪態付く。

「しかしなんにせよ、なぜこんなところに児童こどもをこんな状態で?……東方の人間は面妖なことをする……」

「うー……」

 だから、違うのに。名無しは仕方無しに口を噤む。いや、元々言葉は閉ざされているのだが。


 男は室をうろうろと見回して、いっそう顔を顰める。名無しは慣れてしまっているが、この室はとにかく、臭う。床に染み付いて乾いた血と放ったまま腐った肉が異臭を放つのだ。ときおり蝿なんかも集って蛆虫うじを湧かせるから堪ったものではない。

 それに、名無し自身もひどく臭った。一日に一回、黒装束たちによってすすがれるが、今はちょうどされたばかりで、全身から鉄錆臭がするのだ。

 室の方へ男が視線を逸らしてしまい、名無しは少し残念に思った。暗がりなので、少し離れてしまうと、彼の橄欖石ペリドットの三白眼が見えなくなってしまう。

「うー」

 呆気に取られる男の衣を、名無しはクイッと引いた。

「どうした?」

 男は屈み、名無しと目を合わせるようにした。名無しはその橄欖石ペリドットの三白眼を見たくて、男の長いおさげを引っ張って顔を近づけさせようとする。その名無しの突然の行動に男は面食らい、

「なんだ?どうした、小童わっぱ

「うー」

 発音がままならないので、こうとしか答えられない。名無しは男の目をじっと見詰めた。男は少し気不味そうに、目を少し泳がせて「こほん」と咳払いする。

「と、とにかく。こんなところにいるのも何だろう……外に……」


 すると、ガンッと壁を強く叩く音が鳴り響いた。先ほどこの男が扉を蹴破った時よりも大きな音だ。名無しはビクッと肩を震わせて、男の影に隠れた。

 男は振り返ると、

『ノランバートル様!なぜこちらに?』

 と叫んだ。何を言っているのかさっぱり解らない。名無しは男の後ろをそっと見てみた。

(また、人間の男)

 明るい黄褐色の髪に灰白かいはく色の目をした男だ。二十代半ば程度だろうか。若々しさがある。筋骨隆々で、三白眼の男に比べて綺羅びやかな着物を纏っており、衣全体に刺繍が施され、つば無し帽には見事な房が付されている。


 灰白の目の男はギロリと名無しへ目を向けた。

『なんだ、その汚いガキは』

『いえ……自分にも解らず。ここに閉じ込められていたようで』

 直ぐ様、橄欖石ペリドットの三白眼が答える。両の男の視線は名無しの首や手足を繋ぐ枷に移された。これらを見れば、たまたまこの室にいたとは考えぬであろう。

 灰白の目の男は「ふん」と鼻を鳴らすと、

『どうせ粗相をした奴隷か何かだ。他の者ら同様、外へ繋いでおけ』

 と言い放つ。

 橄欖石ペリドットの三白眼は一瞬押し黙るも、『承知』と応じ、おもむろに名無しへ顔を向ける。

「すまないな」

 名無しは目を瞬かせる。男はその橄欖石ペリドットを苦しげに曇らせて、小さく言葉を落とす。

『きっと、あの黒服らよりは手酷くされないはずだ。だから……赦せ』

 何故か解らない方の言葉を使っている。名無しはきょとんとしたまま、「うー?」と言った。とくに言葉は決めていなかったが、「どうした?」と聞きたかったのかもしれない。


 男は名無しの鎖を切断した。

 意識あるうちで、繋がれていないのは今が初めてかもしれない。名無しは男に手を引かれ、初めて扉の外へ足を踏み出した。

 

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