第01話 生き餌人と宝石の戦士(1)


 ひとつひとつ、削がれる。

 肉、臓物、骨。血の一滴まで。

 

 ももを何枚にもおろされ、骨が露わになり、肉を落とす時に肉切りの刃が骨を掠めてキイキイ音を立てる。その刃がなまくらになっていたのか、途中で刃が止まり、何度も何度も引いては引っ掛かる。

 

 絶え間なく続く痛みの中、名無しはぼんやりと薄暗い天井を見る。反射で身體は何度もびくびくと跳ねるけれども、名無しは叫ばない。

 喉を潰されているというのもあるが、もはや疲れた。終わりの見えない苦痛に、身も心も鈍り、ただそこにいてやり過ごす。それが、名無しの一日であり、そして一生である。

 

「……!」

 

 名無しの身體が、弓形ゆみなりに反った。胸の肉が抉られ、心の臓が抜き取られたのである。肉切りの刃が誤って肺にも傷をつけ、名無しの息を詰まらせる。

 

 苦しい。

 苦しい……!

 

 呼吸がままならない。そのことで思考は白濁し、遠かった痛みは明瞭になり、脳髄を焼く。名無しはひゅうひゅうと呼吸音を鳴らし、血を吐いて咳き込む。

 血が気道に詰まり、喉を掻きむしりたい衝動に駆られるが、肝心の腕がない。足をばたつかせたくとも、その足も骨と皮しか残されていない。ゆえに、血走った眼を見開き、声にならない悲鳴を上げるに留まるのだ。

 

 肉切りの刃を握る男が低く、言い放つ。

「今日はここまでだな」

「左様で。これで今日も、人々は生き長らえられるというもの」

 他の男が応える。

 そこには三、四の男たちの姿があった。赤銅色の肌と彫りの深い顔立ちをした名無しと異なり、みなのっぺりとした平坦顔で、薄橙うすだいだいの肌をしている。彼らは血染めでいっそう黒く染まった袖と丈の長い黒装束を纏い、長い土色の髪を後ろに流している。

 黒装束の男たちは暫くの間言葉を交わしていたが、間もなくして切り分けた名無しの肉や臓物、骨、そして搾り取った血を白磁の器に入れて、名無しから離れる。

 

 その器を抱えると、男のひとりが名無しを見て言った。

「まったく、生き餌人いきえびととは真に薄気味悪い人間だ」

 

「あれを人間だと思ってはならん」その傍らにいた、年老いた男――シュウジュが吐き捨てる。「あれは家畜と同じだ。役割がなければ何の意味も持たぬ」

 シュウジュの視線の先で、名無しの身體はパキパキと音を立てていた。断たれた骨が生じ、その周りに肉や血管が絡みつく――名無しの身體は「再生」しているのだ。

生き餌人いきえびととは白星しろほし様の加護を受けられず、されど死して夜の民と交えることも許されぬ半端者の成れの果て。ゆえには不死。ゆえに不老」

 事実、あれはずっと男童おのわらわの姿をしたまま、今日こんにちまでああしている。我らはその無意味に永久とこしえを彷徨う哀れな外れ者に、その尽きることのない命を分け与える意味を与えてやったのだ――。

 少しずつ戻りつつある意識の端で、名無しは男たちの声を聞く。

 

 生き餌人いきえびと

 

 いつしか、名前のない少年はそう呼ばれるようになっていた。名無しの血や肉は人々の傷や病を癒やす。彼の血肉こそが不老長寿の秘薬なのだ。

 シュウジュを含む黒装束の男たちがみな、室から出て行くのを気取ると、名無しはよろよろと起き上がる。まだ修復の終わっていない腹部から血が溢れ、肉の少ない骨が軋む。

 

(はら、減った)

 

 不思議だ。腹は減るのだ。

 一日一回だけ与えられるを探して、名無しは己の長い白髪はくはつの隙間から薄暗い室を見渡した。

 窓もなく、唯一の灯りだった松明も、黒装束たちが持って帰ってしまったため、暗闇に包まれている。

 

 だがそれは然程問題ではない。己を横たえていた寝台くらいしか、この室にはない。その寝台も寝台と呼んでいいのかは判ぜぬ代物だ。これは、名無しを解体するための台に過ぎず、寝るには硬すぎるのだ。

 いや、そもそも名無しには一日一回の粗末な飯以外、何も与えられていない。名前はずっと「名無し」であるし、衣服すら与えられていない。どうせ血で汚れるからと下着すら与えられていない。

 

 ジャラ、と名無しの首や手足を拘束する枷とそこから続く長い鎖が音を立てる。名無しはその音に構うことなく寝台から下り、よろける。先程までの名残りだろう。血が不足してクラクラした。

 

 グウウ……

 また、腹が鳴る。

 

 名無しはふらふらと進み、室の隅の床にいつも通り置かれているはずの飯を探す。

「うあ」

 ずでん、と蹴躓く。何かを踏んづけたのだ。

「……」

 その何かをつまみ上げ、名無しは沈黙する。は、回収し損ねた名無しの腹綿はらわたの破片だ。ぶにぶにとして、冷たい。名無しはをスンスンと嗅いだ。生臭い鉄錆臭。だが名無しは何を思ったのか、を口に放った。――不味い。

「うえ」

 甘ったるくて、苦い。名無しはべっと舌を出した。

 とにかく、空腹を満たしたい。名無しは室の端に放ってある飯――豚や牛に与えるような残飯だ――を手探りで見出し、それらを頬張った。

 

 どれくらい長いこと、こうして生きていただろうか。


 分からない。物心つく頃にはこうして、文字通り身を「」にしていた。だから、名無しは空も雨も、魚も鳥も、そしてあの黒装束以外の人間も知らないし、識ることもない。ずっと彼はひとり、この牢部屋に留められているのである。

 ごくん、と土とカビの味のする残飯を飲み込むと、名無しはペロリと口の周りを舌で舐め取る。その舌は奇妙に途絶え、その先を溶かされた金属で固められていた。名無しは、話すことも許されていないのである。

 

「ぎゃあああ!」


 矢庭に、室の扉の向こうから、つんざくような声が轟いた。初めて聞くような、おどろおどろしい金切り声だ。その声に、名無しはぼんやりと小首を傾げる。

 どうしたのだろうか。

 いつもは、冷たい静寂に包まれているのに。物音がするのはいつも決まって、名無しの身體を切り刻む時だ。そしてそれは一日に一回。すでに今日のぶんは終いになっている。だのに、扉の向こうが騒がしさが何時まで経っても止まない。どころか、だんだんにこちらへ寄っているようにも思われる。

 

 何となく、扉に寄ってみようと思った。

 けれども、首を繋ぐ鎖が引っ張り返して、名無しは尻もちを付く。

「うー……」

 名無しは少しだけムッとする。鎖が短過ぎる。動ける範囲は寝台の上から、その後ろ奥の壁まで。扉側へ近寄ることは許されていない。暫く前へ進んでみようと試みたが、すぐに止めた。何だか馬鹿馬鹿しくなったのだ。

 

 ガタン!

 

 何かが、扉へ衝突した。

 名無しは驚いて、ビクッと肩を震わす。そして――突然に、その扉は開け放たれた。

 蹴破られた、と言っても差し支えがないくらいに乱暴な開け方だ。激しい打撃音とともに、扉は開き、同時に目映い松明の炎が名無しの視界を照らし上げる。名無しは思わずその眩しさに、腕で目を庇った。

 

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