メロンソーダと味噌汁
仲瀬 充
メロンソーダと味噌汁
二人の娘を連れて寺の墓地で納骨を済ませた帰りに則彦はファミリーレストランに寄った。
「ねえお父さん、お通夜の日に葉っぱでお母さんの口をちょんちょんってしたのは何で?」
日替わりランチを食べながら小学6年の
「あれは
「でも葉っぱを浸したコップの水は緑色だったよ」
今度は中学2年の
「あれは水じゃなくてメロンソーダを入れてたんだ。お母さんにどうしてもって頼まれてたから」
奈々も寧々も分かったような分からないような顔をした。それは当の則彦も同じだった。妻の夏美がメロンソーダやクリームソーダを飲むのを見た記憶はない。変なことを言うものだと思いながらも亡くなる直前の頼みを断る理由はなかった。「そんなことより」と則彦は居住まいをただした。
「葬式も納骨も済んで一段落だ。明日からお父さんは仕事、お前たちは学校、普段通りの生活に戻るわけだが一つだけ聞いてほしい。もうお母さんのことで泣くのはやめよう」
「うん。奈々たちがいつまでも泣いてたらお母さん、悲しむもんね」
姉の言葉に寧々も頷いたのを見て則彦は安心した。
「よし約束だ。もし泣いたら罰金だぞ」
則彦は帰宅後仮眠をとったが目覚めたのは日も暮れた7時近くだった。いかん寝過ごした、冷凍チャーハンでも作って食べさせようかデリバリーを頼むか。急いで階下へ降りた則彦だったがダイニングテーブルを見て驚いてしまった。炊き立てのご飯に味噌汁、おかずは鮭の塩焼きに卵焼きとサラダ。
「奈々が作ったのか?」
「うん。今日から料理は私の担当」
「それは大助かりだ。さっそく食べよう」
則彦は椅子に座って湯気の立っている味噌汁を一口すすった。
「うまい! お母さんと同じ味じゃないか」
則彦が奈々を見て目を見張ると寧々は奈々に微笑みかけた。
「早かったねお姉ちゃん」
妹の言葉に頷いて立ち上がった奈々は1通の封書を持って来た。表書きは「お父さんへ」、裏は「夏美」と書かれてある。
「これは?」
「お母さんに頼まれてたの、渡してくれって」
則彦は箸を置いて手紙の封を切った。
則彦さんへ
鎌倉の海沿いのおしゃれなカフェでこの手紙を書いています。覚えてますか? デートで初めて遠出した時に入ったお店です。「則彦さんへ」と書き出してあの頃に戻ったようで嬉しくなりました。奈々と寧々が生まれてからは子供たちに合わせて「お父さん」「お母さん」って呼び合ってばかりでしたね。
今日病院に定期健診に行ってきました。ステージ4も終盤なので覚悟はしていましたがあとひと月くらいだそうです。今後はもう外出できないでしょうから病院からの帰りに電車でこの思い出のカフェに来ました。
付き合いだしてあなたは私が養護施設育ちと知ってもあれこれ詮索しないでくれました。今さらという感じもしますが私の生い立ちを簡単に記します。小学6年生の時母が駆け落ちしました。その母に私は小さい頃から料理を仕込まれていました。離婚前も家を空けがちだった母の都合からだったのでしょう。父と二人きりの生活になると私が毎日夕食を作りました。でも父は黙々と口に運ぶだけで、きちんとだしを取った味噌汁も褒めてくれることはありませんでした。男親だから感謝や愛情を伝えるのが苦手なんだろう。子供心にそんなふうに自分を慰めましたが違っていたようです。中学に上がると今度は父が愛人を作っていなくなりました。私は母にも父にも愛されていなかったどころか邪魔者だったのでしょう。
養護施設に入ったのは冬で部屋の窓から外を眺めてばかりいました。隣家の壁や屋根、その上にわずかに見える鉛色の空。たった一つの楽しみは緑色のおはじきを透かして空を見ることでした。そうすると寒々とした空も夏の海のように見えたのです。私がメロンソーダが好きなのはその思い出のせいかもしれません。
16年前のデートでは空き地に車を停めてカフェまで歩きましたね。途中に保育園があって運動会をやってたのを覚えてますか? 足を止めて見ていると徒競走の女の子が一人こけました。でもすぐに立ち上がってお母さんの待つゴールへ泣きながら走って行きました。あなたは笑いながら手を叩きましたが私は身につまされる思いでした。本当は私も泣きながらゴールに駆け込みたかった…抱きとめてくれる親がいるならば。泣きもせずに立ち上がりゴールに背を向けて立ち尽くす私。これまでの自分の生きざまがそんなイメージになって立ち現れたのです。
カフェに入っても虚ろな気分のままメロンソーダを注文し海を眺めているとあなたは言いました。
「素直だから可愛いんだろうな、子供って」
「え?」
「おかしければ笑うし悲しければ泣くし。さっきの子の泣き顔も親は抱きしめたくなっちゃうよね」
転んだ園児の話なのに私はハッとしました。私も素直に泣いていいのではないか。親に捨てられた私でも受け入れてくれているあなたの前でなら。そう思うと
末期の水の依頼はそういうことだったのか。夏美の突然の涙に慌ててしまってメロンソーダを飲んでいたことは忘れていた。則彦は
3か月前にあなたと一緒に病院で説明を受けましたね。治癒の見込みがないと聞かされてあなたはひどく落ち込みましたが私は不思議と冷静でした。あなたと一緒になってからの年月は16年間でもそれまでの過去を補って余りあるほどに幸せでしたから。むしろ私はあなたのことが気にかかります。年齢が一回り違いますから私があなたを看取ることになるはずでした。そのせいかどうかあなたは家事に無頓着でしたね。それが今後の心配の種なのです。奈々に私の自慢の味噌汁のだしの取り方を教えようと思います。私からあなたへ残してあげられるのはそれくらいしかありませんから。父に一度も褒められることのなかった私の味噌汁の味は奈々を通してあなたにどんなふうに伝わるのでしょう。
「お父さんが奈々の作る味噌汁を褒めてくれた時に渡して」
そう言い置いて娘たちにこの手紙を託そうと思います。メロンソーダに加えて楽しみが増えました。あなたがこの手紙を読む日が一日も早く来ることを楽しみにして私は旅立つことにしましょう。それでは奈々と寧々をお願いしますねお父さん、じゃなくて則彦さん。あ、再婚なさってもかまいませんことよ(笑)
読み終えて則彦は箸を手に取った。卵焼きも夏美の味だ。塩鮭も皮の部分をフライパンに押し付けてカリカリに焼いてある。生焼けの皮を外して残す自分のために夏美が工夫してくれた焼き方だ。
「朝はバタバタするから掃除機は時間のある時にかけるね」
奈々が和室の掃除を始めた。畳の目に沿って掃除機を滑らせ壁際ではヘッドを壁にツンツンと当てている。夏美と同じやり方だ。
「お父さん、早く食べて。食器洗いは寧々なんだから」
そう言いながら寧々が乾いた洗濯物を抱えて来てリビングの床に置いた。かつての夏美のようにちょこんと正座して畳むのを見ているとシャツの袖の畳み方までそっくりだった。夏美が残してくれたのは味噌汁だけではなかった。何もできない自分のため、わずかひと月の間にこれほどまで奈々と寧々に……。則彦は箸を置いて両手で顔を覆った。すると奈々と寧々がそれを目ざとく見て取った。
「お父さん泣いてる!」
「やったあ、罰金だ罰金だ!」
メロンソーダと味噌汁 仲瀬 充 @imutake73
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