「狂喜」

「珍しいな。お前から訪ねて来るとは」

僕が家に上がると、父は自らが点てた茶をすすっていた。

「それで、何の用だ」

冷たい目が僕を射抜く。その目は、とても自分の子供に向けた物とは思えなかった。

「父さん、話があるんだ」

「なんだ、出世が決まったのか」

全く、それしか頭にないのだろうか。いや、実際そうなのだろう。

やはり僕は、道具にすぎないのだ。


「違うよ、父さん」

すると、父は明らかに不機嫌になり、ふん、と鼻を鳴らした。

高級な椅子の背もたれに体重を乗せると、突き出た腹がよく目立った。僕にはそれが札束を持った豚を連想させた。


「じゃあ何だというんだ」

かちゃり。

拳銃を取り出し、構える。前置きは要らないのだ。今更語ることもないのだから。

「…なんの真似だ」

父は銃口を睨みつけた。

「最近、再会したんだ、あの人と」

それだけで通じたのか、初めて父の目が泳いだ。

「…あの女か。またもや毒されたか」

「なぜ嘘を吐いたんだ、父さん。僕はあの嘘で長く苦しんだ。死のうとすら考えたのに」

「お前はおかしくなってるんだ。洗脳されてる。お前は俺の息子だぞ?こんなことして何になる?お前は院長に…」

パアン、と銃声が父の声を切り裂いた。

パリパリパリ、と天井のライトが割れ、机の上に落ちる。

父は何も言わずに、ただただ驚愕していた。まさか、玩具とでも思っていたのだろうか。

「聞きたいのはそんなことじゃないんだよ、父さん」

「…落ち着きなさい。お前はおかしくなってるんだ。こんなことするほど馬鹿じゃないだろう」

父は息をのんだのち、左手を突き出した。その手は震え、年輪のように刻まれた皺がよく見えた。


しょせん、耄碌したジジイか。


拍子抜けするような感覚。はっきりと失望した。

父にも、父に縛られていた自分にも。


拳銃こんなもの一つで、変わるような関係なのか。


半ばやる気をなくしながらも、僕は用意していた言葉を父に吐く。


「父さん」

「な…なんだ。金か?金ならいくらでも…」

パアン。

またしても銃声が響く。今度は椅子の足を正確に打ち抜いた。父はバランスを崩して倒れ、恐怖に怯えた目で僕を見上げた。


全く何を怯えているのだろうか。僕はただ確かめようとしているだけなのに。


そう、僕は確かめなくてはならない。


父にとっての僕を。

息子としての僕を。

道具としての僕を。

僕としての僕を。


それを確かめる言葉は、一つしか浮かばなかった。


「父さん、質問だよ、僕の名前は?」

父の目が泳ぐ。応えは返ってこない。


やっぱりか。


心臓に銃を突きつける。

父さんは目に涙を浮かべて怯える。まるで仔犬のようだ。

情けなくて仕方なかった。


「そんな顔しないでよ、父さん」


引き金はとても軽かった。





慣れてはいたが、決して親しんではいなかった自らの生家を後にしようとしたとき、玄関に詩織がいるのが見えた。

僕は歩みを止める。詩織は土足のままこちらに向かってくる。


僕には詩織が羽を持った天使に見えた。

僕を救う唯一の光。


ああ、詩織。どうかこの家を汚してくれ。

決して僕に安寧を与えなかったこの場所を踏みつぶしてくれ。

そして僕の心の中に入ってきてくれ。

その靴のままで構わない。

君で僕をぐちゃぐちゃにしてくれ。


詩織は何も言わず、優しく僕を包んだ。

詩織の匂いで、僕の纏った生臭さが異常であることを思い出した。


詩織に匂いがついてしまうかもしれない。


だが、今はどうでも良かった。

むしろ、彼女を僕で包みたいとすら思ってしまっている。


そもそも、この匂いを僕に教えたのは詩織だった。

僕は詩織を纏い、詩織は僕で包まれる。


矛盾のような、歪のような、狂気のような狂喜を、僕は抱えている。


そんな僕を落ち着かせるように、詩織はゆっくりと背中をさする。首元に吐息がかかる。


「航平、逃げようか」


そうして、僕らの二度目の逃避行が始まった。


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