「狂気」
生温い風がシャツの中を泳ぐ。気怠さが肌を伝う。それに抗いながら、僕は指定された場所へと向かった。今度の場所は僕らの中学校のすぐ近くの公園だった。
僕が着くと、彼女はすでに公園にいた。彼女はベンチに座り、煙草をふかしていた。
僕らがいつも腰かけていた木製のベンチは、いつの間にか木を模した茶色のプラスチックに姿を変えていた。
「お待たせ」
僕はそれ以上何も言わずに、詩織の隣に腰を下ろした。
詩織はこちらを向かずに白煙を吐いた。
そう言えばあの頃、ここでよく二人で煙草を吸っていた。
あの頃、喫煙の醍醐味であった罪悪感と背徳感はとっくに消え去っているというのに、詩織は煙草をやめていなかった。
「ねえ」
ふいに、詩織が言った。目はまだこちらを向かない。
「私たちも、あんなだったかな」
言われて、僕は詩織の見ているほうに目をやった。公園の木の下で身体を寄せ合って話している中学生らしきカップルがそこにはいた。二人でアイスを分け合っていて、思わず揶揄いたくなるような純粋さが透けて見えた。
いや、僕らはあんなじゃなかっただろう。
あまりべたべたとくっつくことはしていなかった。
それに、なによりも。
「僕らはもっと物騒だったよ」
すると詩織はこちらに顔を見せて笑った。二本指で持った煙草と、子どものような無邪気な笑顔のアンバランスがやけに印象深かった。
「確かに。あんなに可愛く無かったよね」
彼らが互いに食べさせあっているアイスは、僕らにとってはセブンスターで、彼らが持つスマートフォンは僕らにとってピストルだった。
そして十四年がたった今も、僕らはセブンスターとピストルを携えてこの公園に来ている。
「成長しないなあ、僕らは」
思わず口に出ていた。
「いいじゃん、私たちはあの頃のままでも」
いいのかなあ、という言葉はふいに鳴き始めた蝉によってかき消された。
「何か言った?」
詩織は僕を見つめる。僕は何も言わずに見つめ返した。綺麗な瞳が、夏の光を浴びている。柔らかな唇が僕を刺激する。
でも、もし。
気付くと僕は詩織にキスをしていた。詩織は驚くでも拒むでもなく僕を受け入れた。
もし、「成長」が僕らを引き離すとしたら、そんなものはいらないと心から思えた。
詩織の運転するホンダのSUVの助手席に僕は座っている。
詩織はこのまま、母親のもとに向かうらしい。
一体どうやって居場所を調べ上げたのか気になるところではあったが、僕は詩織に従うだけだ。そんなことはどうでもいい。
ちらりと横を見る。表情からは緊張も怒りも読み取れなかった。
信号待ちになると、詩織は窓を開けて煙草を取り出した。
「今日何本目?それ」
僕の言葉に詩織は煙草を咥えながら、僕に目をやった。そして、左手で数を数える仕草をした。
五、十、十五…と言うように、どんどんと指が動く。不健康なほど白く細い指はまるで波のように忙しなかった。すると急に手をパーの形にした。そしてライターを手に取ると、火をつけた。
人差し指と中指で煙草を押さえ、ゆっくりと吸い込む。そしてそのまま手首をだらんと下げ、溜め込んだものを吐き出した。車内に立ち込めた白煙の匂いが、僕を撫でるように広がると、煙は意志を持つかのように、まるでこれから未来が広がっているんだと言うように、悠然と窓の外へと飛んでいった。
「数えられないほど、かな」
「そんなにヘビースモーカーだったっけ」
「実を言うと、そこまで好きじゃないよ」
「じゃあなんで」
吸ってるの、という言葉は省略した。詩織の不敵な笑みが確認できたからだ。
「線香みたいなもんだよ。貴方との思い出を偲んでるの」
言うと、もう一度、詩織は吸った。そして、吐く。黒を基調とした車内に、白い煙。まるで本当に葬式みたいだ。
詩織は両手を合わせて目をつむっている。子どもみたいだよな、と思う。
子どもみたいに無邪気で、よく笑って。
そして、過ちを犯す。
それに、僕も同じように間違える。
所詮僕らは同類で、みじめにもお互いをずっと求めあっている。
とことん歪で、とことん矮小なのだ。
良いのだろうか。
考えずにはいられなかった。
しかし、耳元に詩織の、「なあんてね」という言葉と笑い声が聞こえて、全てがどうでもよくなった。
詩織が笑えているなら、それでいい。
僕は心からそう信じていた。
詩織の母親の家は、閑静な街並みの中にあった。
子を持つ親には人気の治安が良いと有名な街で、戸建てがいくつも並んでいる。
その一角にある白い家が詩織の母親の家だった。
詩織は家のすぐ前に車を停めた。
詩織はこちらを見ずにドアを開けた。
「挨拶、しよっか」
詩織はインターフォンを押した。僕は詩織の隣に佇んでいる。
ピンポーン、と小気味よい音が響いた。
「…はい」
数秒ののち、声が聞こえてきた。
僕はちらりと詩織を見た。
表情の変化は見て取れなかった。
「詩織です。覚えていますか」
ハキハキとした声だった。
さっきよりも長い沈黙が流れた。
「…ちょっと待ってて」
返答は短かったが声色からみて、詩織が誰なのかは分かっているようだった。
また数秒経ったのち、引き戸のドアが開いた。
出てきた女性は、思っていたよりずっと若々しかった。
パーマがかった長髪に、皺の少ない白い肌。
どことなく雰囲気が詩織に似ていた。
「久しぶりだね、お母さん」
「あなた…本当に詩織なの?」
女性は僕を一瞥した後、品定めるように、詩織をじろじろと見た。詩織はお構いなしに言葉を続けた。
「私が小学生の時に居なくなったから、それ以来だね。私、大きくなった?」
女性は動揺しきっているようで、目があちこちを泳いでいた。
詩織は女性の目を見据えて離さない。
「大変だったんだよ?お母さんがいなくなって、クソ野郎の暴力は増えていったし、カスジジイからレイプもされた。地獄だったけど、お母さんが戻ってくると思って耐えてたの」
でも結局来なかったよね、という言葉は、どこまでも冷たい響きを持っていた。
「あ、あの、本当にごめんなさい。私だって、迎えに行くつもりだったの。ほんとよ、嘘じゃないの」
女性は一向に詩織と目を合わせようとはしなかった。
「ううん、別に怒ってないよ?大丈夫、ずっと前の話だし」
―――許せる訳ないじゃん、そんなの。
詩織の家で詩織が放った言葉が蘇る。怒ってないなんて大嘘だ。
だが、詩織は笑顔だった。言葉は暗く、重く、許しているようには全く思えないのに、笑顔だった。
女性はそれに恐怖を覚えたのか、声が震えていた。
「あ、あなたがここまで大きくなってくれて嬉しい。嘘じゃない。本当よ。だってあなたは私の娘だもの」
女性は詩織の頬を撫でた。しかし、その手は小刻みに震えている。
「お母さん、せっかくだし、家にあげてくれる?」
「も、もちろんよ。二人で話しましょう」
女性の瞳は依然恐怖で染まっていた。
詩織は僕に目をよこす。
「航平、悪いけど車で待っててくれる?ちょっとお母さんと話してくる」
「うん、わかった」
僕はこの後に起こるであろう出来事に思いをはせた。
本当にこの女性はもう直ぐ死んでしまうのだろうか。
「ありがと」
僕の言葉に、詩織はすっきりしたような笑顔を見せた。
ああ、やっぱり詩織はこの人を殺すんだろうな。
そう確信せずにはいられなかった。
十四年前も同じ表情を僕に見せて、次に会った時には詩織は人殺しになっていたのだから。
女性はドアを開けて、詩織を中に入れた。女性も中へと入り、ゆっくりとドアが閉まった。
これから起こる惨劇ののち、僕らは一体どうなるのだろうか。
ふとそう思ったが、すぐに考えることをやめた。
だって何が起こるにしろ、僕は詩織のために動くに決まっているのだから。
しばらくすると、スマホが四回震えた。詩織からの着信だとすぐに気づいた。
一応、着信の電話番号を確認したが、非通知だった。
ため息を吐きつつ助手席から腰を上げ、ピストルをポケットに忍ばせて家のドアを開けた。
ドアを閉めると、すぐにその匂いは僕の鼻腔を刺激した。
いつかの日、体にまとわりつくほど嗅いだ死の匂い。
思わず吐きそうだった。堪えながら靴のまま玄関に上がり、リビングに近づくほどに匂いは強くなっていく。
それに呼応するように僕の吐き気も加速して、頭痛も催すようになった。
ああ。
無様に転がったそれを見て、思わず息が漏れる。
―――やはり僕らは間違えたのかもしれない。
詩織はじっと自らの母親の死骸を見つめていた。
その背中は普段より、昔よりずっと小さく見えて、とても人殺しのものには思えなかった。
死体の目はただの黒いビー玉のようで、アクセントのように黒の中に小さな紅が見える。
胸からは真っ赤な血液が漏れ出ており、本来白であったはずのフローリングを朱に染めていた。
リビングは静寂で満ちていた。唯一時計の針が時間を刻む音だけが、規則的に、機械的に耳に届いていた。
「詩織」
僕は詩織の肩に手を置いた。恐ろしいほど冷たく、詩織も死んでしまったのではと錯覚してしまいそうだった。
「埋めないと」
音のなかった世界を、僕の言葉が切り裂いた。
みーんみーんみーんみんみん。
ざくり、ざくり、ざくり。
夏に相応しい、清涼感を持った音を携えて、僕らは山に穴を掘っていた。
十四年前に死体を埋めた山。僕らが再会した山。
既に物となった詩織の母親を2人で担ぐ。
詩織が足を、僕が肩を持ち上げた。
光のない目が僕を覗く。まるで間抜けな魚のようで、滑稽な人形のようだった。
せーの、という掛け声に合わせて穴に向かって投げる。
ドスン。
さながらゴミのように、意思も持たずに落下した。
詩織はそれをじっと見つめていた。
まるで小さな子どもが初めてのものを見るときにように、一瞬たりとも目をそらさない。
どれぐらい経っただろう。蝉の声が二つから三つになったころ、おもむろに詩織が穴へと飛び込んだ。
懐からゆっくりとナイフを取り出し、思いきり振りかぶり、自らの母親の腹を刺す。血がどろどろと溢れる。
もう一度、刺す。
刺す。
刺す。
刺す。
刺す。
刺す。
刺す。
刺す。
刺す。
ただの一言も発さずに、腕を、肩を、目を、心臓を、刺し、えぐる。
「…死ね」
小さく、枯れた声だった。抑えていたものが爆発するように、もう止まらなかった。
「死ね!」
うねり声をあげ、叫び、狂気に目を染めて、ナイフを振りかざす。
返り血がかかるのも構わず、ひたすらに暴れる。
気付けば、死体は原型を留めていなかった。家畜のえさといっても差し支えないような、無数の肉塊が穴の中に転がっていた。
詩織も、元の姿を保っていなかった。
服には飛び出した臓器がねっとりと付着してクリスマスツリーの飾り付けのようなアクセントになっており、美しく統一的なブロンドの髪は
僕は「モノ」ですら無くなった女性の姿を眺め、元の姿を思い浮かべた。
詩織に似て綺麗な、皺の少ない整った魅力ある顔立ち。
それが今、数多の肉片となり、そこから元の姿体を思い浮かべることは不可能になっている。
ああ、人ってこんな簡単に死ぬんだった。
覚えていたはずのことを、今更思い出した。
そして、息を切らしながら狂気を纏う詩織を見て、僕の中の何かが壊れた。
ぷつんと、詩織に手によってほつれていた糸が切れる音がした。
今まで悩んでいたものすべてがチンケに思える。
そうだ。初めからこうすればよかったのだ、詩織のように。
元凶を取り除いて仕舞えばいい。僕を縛るものを、壊して仕舞えばいい。
そんな簡単なことだったんだ。全部。
思わず笑いがこみ上げる。
「はは、ははは、ははははは!」
僕の哄笑を詩織が見た。
朱に染まった頬を夕日が照らす。
なんて美しいのだろう。
詩織だけが、僕の理解者だ。
そして君なら、僕に協力してくれる。そうだろう?
僕は懐から拳銃を取り出し、一撫でした。シルバーがオレンジによく映える。
大丈夫、できるさ。
僕は、父を殺す。
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