「身体」

「もう一度、殺人を手伝ってほしいの」


つい先日の詩織の言葉が、病院からの帰り道の中で甦る。

あれから詩織から、連絡は何もなかった。

連絡先も交換しなかったから、連絡が来るかすら怪しい。

もしや夢だったのではないだろうか、という思いすらある。


現実から逃げようと企んだ僕の愚かな妄想。


そんなことしたって、現実はものすごい速さで僕に追いついてくることはとっくに実証済みだというのに。


すると、ポストになにやら紙が入っているのが見えた。

一瞬、体が固まった。前回と同じ、中途半端なはみだし方。

僕は少し怯えながら紙を取った。


『拝啓 共犯者の貴方へ』


詩織だ。何故だか、全身の力が抜けた。





指定されたカフェに着くと、すでにそこに詩織はいた。

中学時代、二人でよく無駄話に花を咲かせた場所。


窓側一列目の二人席。

自然と目をやった席に詩織は座っていた。

詩織は僕に気づくと手を振った。

僕はどうすればよいのかわからず、会釈のような形でそれに反応した。


「先頼んじゃってるよ、航平も頼んで」

「僕はあれでいいや、クリームソーダ」

詩織がうれしそうにクスクスと笑った。


「なんだよ、急に笑って」

「いやあ、あの時と注文変わらないんだなあって」

ああ、そうだ。自分でも忘れていた。あの頃からだ。カフェに入るといつもクリームソーダを頼んでしまうのは。子どもっぽいと馬鹿にされたっけ。


「よく覚えてたね。詩織は何を頼んだの?」

ニヤリと笑った。

「ホットコーヒー」

思わず笑みがこぼれた。詩織も、あの頃のいつもの注文だ。

「私たちは変わらないね」

「うん、ほんとに」

本当に、変わらない。


コーヒーとクリームソーダは同時に運ばれて来た。

詩織は視線を落とし、カップを撫でた。

僕は一口飲んだ。纏わりつく甘さと刺激のアンバランスが癖になる。

「ところでさ、あの話なんだけど」

ストローをすする。アイスが崩れた。

「二人、殺したいんだよね」

今度はアイスを掬う。やたら甘い。

「誰と、誰?」

もう一度ストローに口をつける。柔らかい炭酸が喉を伝う。

「一人はお母さん」

あっさりと言い放った。

「一応、理由を聞いてもいい?」


僕は詩織の母親をよく知らなかった。というか、ずっと付き合っていたのに、詩織のことをよく知らないのだ。それをずっと後悔していた。だからこそ、今度はしっかりと詩織のことを知りたかった。


詩織は意外そうに僕の顔を覗き込んだ。

視線は外さずに、一口コーヒーをすする。薄紅色の唇と白のカップが口づけを交わす。何とも言えぬ美しさがそこにはあった。


「ここで話すのは良くないね。とりあえず、うちに来る?」

思いがけぬ一言だった。





「簡単なのしか作れなかったけど、ごめんね」

そう言って詩織は野菜炒めをテーブルに置いた。


「ありがとう」

詩織は笑った。

「大したことじゃないよ」

「いや、人の作ったもの食べるの久しぶりだからさ」

「彼女とかいないの?」

「いないよ、そんなの」

慌てて返したが、すぐにそれが何の罪にもならないことを思い出した。

そう、別に僕らはもう付き合ってないんだ。


「いただきます」

寂しさを誤魔化すように箸を持った。

詩織の野菜炒めは温かくて、少しだけ甘かった。

「美味しい」

「ほんと?ありがと」


詩織は僕に向かい合うように正面に座って、同じく箸を持った。

一口食べる。

「我ながら美味しいね」

「僕の方が料理は上手いけどね」

分かりやすく、詩織は表情を曇らせた。

「嫌なこと言うね」

「ごめんごめん、冗談だよ」

思わず僕は笑顔になった。そうだ、僕はこんな、表情豊かな少女に惚れたのだ。





「それで、お母さんのことだけど」

洗い物をしながら、詩織は話し始めた。僕は何も言わない。

「あの人は私を見捨てたから。私を地獄に置いて、一人で逃げた」

詩織は昔と変わらず、家のことを地獄と呼んだ。口調は軽かったが、言葉は重い。


「最初はいつか迎えに来てくれるなんて健気に思ってたけど、まやかしだった。私のことなんてとっくに忘れて、再婚して子どももいるらしいよ」

じゃーじゃーと水道水の音が聞こえる。低い音がよく響いて、まるで重厚なBGMみたいだった。


「許せないじゃん、そんなの」


放った言葉には、これまでの十四年が詰まっているようだった。僕が苦しんだのと同じように、いや、それ以上にきっと詩織は苦しんできたのだ。


「でも、なんで僕を?」

水の音が止まった。洗い物が終わったらしい。

「こんなこと、航平以外に頼れないでしょ」

こちらを見るでもなく、さも当たり前のことのように詩織は言い切った。それが何だか誇らしくて、胸が熱くなる。


「今日は泊まっていくでしょ?航平」

僕としてはそんなつもりはなかった。しかし、断る気にもなれなかった。





リビングも物が少ないと感じたが、寝室はそれ以上に物がなかった。

シングルベッドと、その枕元に小さなランプが置いてあるのみで、他に何もなかった。


そして僕らはベッドの上で、当たり前のように互いを求めていた。

詩織は僕に体を絡めようとする。詩織の白く美しい肌と、アンバランスに見える肩のくぼみ。細く柔らかい二の腕。暗闇に映える金の髪。

そのすべてが僕を刺激していた。


すると、何かに気づいたように詩織は動きを止め、何かを探し始めた。

「さすがにちゃんとしないとね」

コンドームだった。詩織の家にそれが置いてある事実が気に食わなかったが、僕は黙って従った。


僕は詩織の上にまたがる。がた、とランプの位置がずれた。

彼女の身体中の痛々しい傷が影を帯びた。


父によってつけられた傷。

叔父によってつけられた傷。

そして、僕によってつけられた傷。


そのどれもが不思議なエロスを抱えていた。

詩織がほほ笑んだ。

「あんまり見ないでよ」


その時、なぜかいくつもの思いが駆け巡った。


過去の過ち。

詩織との関係。

父との関係。

これから犯そうとしている罪。


ぐるぐると頭を周回する。


瞬間、詩織が僕の唇を奪った。

久しぶりのキスは、歯磨き粉の味がした。

全てがどうでもよかった。


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