「邂逅」
車窓にはいつぶりに袖を通したかもわからないようなよれた私服を着た男が映っていた。
まるで生気がなく、幽霊と言っても差し支えないほど無機質にそこに映っている。
都心とは反対方向の電車を三つ乗り換えて、そのたびに人は少なくなっていった。
今乗っている車両には、僕のほかにはくたびれたおじいさんしかいない。
そしてそのおじいさんもしばらくすると降りて、ついに車両は僕一人のものになった。
こうなるといつかの日を思い出す。
誰もいない電車に、やたらとテンションをあげていた彼女。
全部私のもの、とかなんとか、よくわからないことを楽しげに話していた彼女。
気づくといつの間にか、僕を幸せにしてくれていた彼女。
その彼女に呼び出されて僕は今地元に帰っていた。
不思議な宛名をしたあの手紙には、日時と場所のみが書かれていた。
一体何の用かはわからない。しかし、全てを確かめるためにも、僕には行く以外の選択肢はなかった。
聞きなれた駅名が間延びした車掌の声から聴きとれた。
僕は電車から降りて、指定された
普段は立ち入り禁止だが、僕ら二人はお構いなしによく遊んだものだ。
「KEEP OUT」「立ち入り禁止」
という、いかにも危険ですよという黄色と黒いフォントの文字も大して気にせずに、縄をくぐって山へと立ち入った。昔々に作られたであろう木の階段を登っていく。
手紙には山のどこで待ち合わせなのかは書かれていなかったが、だいたいわかる。
あの日、死体を埋めた場所だろう。
彼女は当時、父親からは虐待を受け、叔父と叔母からは性暴力を振るわれていた。そしてある日、耐えられなくなって反撃したところ、父親を殺してしまったのだ。
全てを事後報告で訊いた僕は、彼女とともに死体をこの山に埋めた。
そして彼女は、人が思ったよりもずっと簡単に死ぬことを知った。
そこからは止まらなかった。二人で叔父と叔母を殺し、死体を隠し、逃走を図った。
そして、数々の罪を犯しながら、僕らは彼女が目指した場所へと向かった。
その目的地に着く直前になって、警察に追いつかれてしまった。
僕はそこで、彼女に頼まれて、彼女を殺したのだ。
思い出と呼ぶにはあまりにも生ぬるい出来事。強いて呼ぶとしたら、「凶行」と呼ぶのがふさわしいだろう。僕は確かな後悔と十字架を未だ抱えていた。
着いた。忘れようのない、「凶行」の出発点。
懐かしさも涌かない。湧いてきたのは、地から這い出てくる不思議な浮遊感だけだった。
「航平、久しぶりだね」
振り向くと、彼女がそこに居た。髪色はあの頃のような漆黒ではなく、夜を照らす月のような金に染まっていたが、昔と何ら変わらない笑顔がそこにはあった。
全身が震える。生きていた、生きていた。
「あの時、死んだと思ったんだけどね」
彼女はそう言って、身にまとった白のワンピースを少し下げた。左肩から胸にかけて、痛々しい痕が大きく残っている。僕が与えた傷だとすぐにわかった。
その傷は死というより、むしろ生の象徴のようで、不思議なエロスを兼ね備えていた。
「あの頃はよくわかってなかったんだけど、少年法に守られていたんだよね、私。人を殺していようと、罪には問われなかった」
彼女は高揚しているのか、口数が多かった。
彼女は次いで、僕に微笑んだ。
「どうしたの航平。黙っちゃって」
「…なんか信じられなくて。詩織が生きているなんて」
夢のように思えて仕方なかった。だって確かに僕は、詩織が死んだと聞いたのに。
でも。
その声。
その傷。
その仕草。
あふれ出るすべての情報が詩織を断定している。
まさか別人とは思えない。
本当に詩織は生きているんだ。全身の細胞が震え立つのがわかる。
良かった。本当に良かった。
「すごいね、航平は。医者になったんでしょ?」
詩織は大きな柳の木に身を任せた。
「まあね。でも、なんの感慨も生まれないよ」
僕はそれに倣って、同じ木に寄りかかった。
「立派な仕事じゃん」
「人を救うのは性に合わないよ」
「そう?」
詩織はポケットから煙草を取り出した。あの頃暇つぶしに吸っていたセブンスターだ。僕は合わなくてすぐにやめたけれど。
「まだ吸ってるんだ」
「ん?ああ、まあね」
「そんなに好きだったっけ」
「いやあ、別に」
じゃあなんで、という言葉は不意に頬を撫でた詩織によってかき消された。
「ねえ航平、もう一度だけ私を救ってくれる?」
詩織の細く長い指が蛇のように僕の首を伝う。恐ろしく冷たい。
「何を、するつもり?」
詩織は一呼吸置いた。生ぬるい吐息が首筋から僕のシャツの中を伝って泳いだ。
「もう一度、殺人を手伝ってほしいの」
沈黙が訪れた。夜の蝉がひたすら愛を求めている。
僕は詩織の目を覗く。真剣そのものだ。嘘なはずがない。
また過ちを繰り返すのか。詩織は。
僕は考える。
止めなくてはならない。こんな間違い、二度と起こしてはいけない。僕らはもう子供じゃない。もう法は僕らの味方ではないのだ。絶対に止めなければ。
「…わかった」
だが気づけば、そう答えていた。自分でも意味が分からなかった。
「ありがと」
詩織が笑った。それを見ると、何も言えなかった。
そして、今更気づいた。
あの頃から僕は、いつだって君に従う奴隷だったのだ。でも別にそれで構わない。
たとえ間違いでも、君を笑顔にしたいと本気で思ってしまっているのだから。
『拝啓 共犯者の貴方へ』
ふと、手紙の宛名を思い出した。
ああ、やっぱりそうなんだ。
詩織はいつも正しい。
僕はどうしようもなく、君の共犯者なのだ。
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