魔王

月コーヒー

第1話


   1


 あと10日。


 という黒いペンキで書かれた落書きが、東地区教会に見つかる。


 この近くに座り込んでいる乞食の男の子が初めに発見した。


 騒ぎを聞きつけた人々は、落書きを見て目を見張る。


 皆が皆、魔物から人々を救った大戦の英雄バナサ・ガネリサ像の見守る教会前の広場で、鰯みたいに口を開け、落書きを不思議そうに見上げていた。


「どうやって書いたんだ?」


 ぼそりと一人の男が呟いた。


「登ってだろうよ」


 隣の男がぼそりと答える。


「それからどうやって」

「……ロープで釣られながら、それ以外ないだろう。誰かが教会に忍び込んだんだ」


 落書きは、頂上には鐘が2つ並ぶ鐘塔の壁に目いっぱい書かれていた。


 鐘塔の上からロープで吊られながら書くとしても、あんな広く書くには手を伸ばしても無理だろう、と言った男も聞いた男も、思ってはいた。


 この近くに住む第3警備課隊長のディネヴァーは通勤の際、この落書きを横目で目撃した。


 大きな脚部、大きな腰、膨れた腹、大きなブタっ鼻、さながら身ごもった猪のような姿のディネヴァーは、乞食の男の子を見つけると声をかける。


「ルイス、何の騒ぎだ。何だあの落書きは」

「ああ、隊長。おはようございます。それが、僕が朝起きたら、あんなのが描かれてたんだ。なんだろうね、あれ」


 酒粕色の手織りの胴着を着た、丸坊主の乞食の子供は、恭しく頭を下げながら言った。


「ふーん、ほれ」


 ディネヴァーは、小銭を取り出しルイスに渡した。


「あっ、ありがとうございます」


 ルイスは両手で慇懃丁寧に受けとる。


「お前最近何してるんだ」

「へ?」

「ここひと月ぐらい、ここらで見ない」


 ルイスは、頭を照れくさそうに掻いた。


「じつは、隊長のおかげで行けたフーランさんの所で、弟子にしてもらえたんです」

「ほんとか。そりゃよかったな」

「はい」


 ルイスは、にっこり笑う。


「お前の夢だったもんな。がんばれよ」


 ディネヴァーも、にっこり笑う。


「はい、隊長!」

「じゃあな。俺は仕事だ。この事も連絡しといてやる、俺等の管轄だ」

「ねぇ隊長、どうしてです?」


 ルイスが呼び止めた。


「何がだ?」

「どうして僕に優しいんです?」


 この質問に、ディネヴァーは俯いた。


「お前の事情は俺の職業柄、よく知ってる。単なる同情だ。気にするな」


 ディネヴァーは後ろ手に手を振り去っていく。


「この前はお金ありがとう!」


 ルイスは背中に叫んだ。


 警備局第3警備課の調査により、教会には厳重に鍵が閉められており、開けられた形跡もない。門番もいたが、誰も侵入者など目撃していない事が判明した。


 翌日……。


 あと9日。


 という落書きが、東南地区教会の壁に書かれる。


「デカデカと書きやがったなぁ」


 落書きを見上げる男が感嘆するように言った


「どうやって書いたんだろ」


 隣の男がぼそりと言う。


 落書きは、高さ90メドルの教会の壁一面に書かれていた。


 そして、今回も門番はいたし、夜間でも人通りのある大動脈ノメン大通りに面しているにもかかわらず、目撃者はいない。


 翌日。


 あと8日。


 という落書きが、南地区にある教会の壁一面に書かれる。


 発見者は、夜警だった。


 この夜警が、午前零時すぎに見回りをした際はなかった落書きが、午前零時半ごろ再び前を通った時にはあったという。


 ここで初めて、ジオの街の住人は騒ぎ出した。


 不可思議な落書き、そして、


「これさ、何のカウントダウンなんだ」


 南地区教会の落書きを見上げながら、男がぼそりと呟く。


「……」


 この男の疑問に、誰も答えられなかった。


 本心では魔物の仕業では、と過ぎってはいたが、誰も恐れて言いたくなかった。


 そして、ジオの街を守る警備兵が本腰を入れ始める。


「このような悪戯。神聖なる教会を侮辱する卑劣極まりない行為だ。何としても犯人を捕まえて見せる」


 警備局第3警備課兵隊長ディネヴァーは、丸々肥えた体と二重になった顎と声を震わせ住民たちに言い放った。


 そして、今度狙われるなら南西地区の教会だ。ということで、夜間は極秘裏に、南西教会とその周辺を、警備兵が隙間なく監視することになり、さらにジオの街中の落書きされそうな場所にも見張りを置くという徹底ぶり。


 いつでも来い。とディネヴァー自身も南西教会に座り込み、意気込んだ。


 あと7日。


 南西教会の鐘塔頂上の大鐘に書かれた落書きを、人々は目を凝らして見つめる。


「なぁ、これ、どうやったのかな?」


 女が友達に尋ねた。


「あんなところ、普通書けないよね」


 友達も呼応する。


「もしかして、本当に魔物なのかな……」


 そして不安な顔になり、小声で言う。


「……お母さん達もそう言ってた」

「皆言ってるよ。聞いた? 警備兵が見張ってたのに書かれたらしいよ」

「ありえないよね、そんなの……」


 女たちが見下げると、ディネヴァーが配属した兵たちを怒鳴っていた。


「何をしてたんだ、てめぇら!」

「いえ、ずっと見張っておりました!」

「書かれてるだろうがぁ!」

「わ、わかりません。どうやったのか。誰も教会に近づけさせませんでしたし、教会に入り込んだ形跡もありません」

「何言って――」


 ディネヴァーは、納得のいかない顔をして睨みつける。


 自身も全く気付かなかったため、何も言えなかった。


「明日だ。明日はきっと西地区だ」


 ディネヴァーは、今度はぬかりなく、人だけでなく、西地区教会のいたるところに罠を仕掛ける。


「例え見張りの目をかいくぐったとしても、ネズミ1匹入れまい。ふっふっふ」


 ディネヴァーは、勝利を確信し微笑んだ。


 あと6日。


 教会の屋根の上に立っている銀十字に、落書きは書かれた。


 あざ笑うかのような落書きに、ディネヴァーは歯ぎしりが止まらない。


 ……罠はひとつも作動しなかった……だと……。


 ……前より警備兵も増やした……。


 ……なのに……なぜだ……どうやって、こんなマネを……。


 まさか……本当に魔物なのか……。


――違う。そんなわけがない。


 俺達警備局が、どれだけ注意して魔物どもを見張っていると思っている。


 ちりぢりになった奴らは俺達が駆除し続け、その数も、生息地もすべて把握している。


 そんな奴らを街の中に入れてしまっただなんて……プライドに掛けてそんな事はあり得ない。


 くそっ、なんなんだっ……。


 頭を抱えるディネヴァーの元へ、部下が慌てて走ってくる。


「隊長、外へ来てください。住民たちが騒いでおります。ここへ多数の住民が殺到しているもようでして」

「何?」


 ディネヴァーが外に出ると、書かれた落書きに怒り心頭の住民たちが武器を片手に殺到していた。


「おい、皆! 北西の教会には、こんなバカげたことはさせるな!」


 剣を掲げ、男達が叫ぶ。


「明日、俺たち全員で、教会を取り囲むんだ! そしたら書きに来た奴を捕まえれる!」

「警備兵などあてにできるか! 俺達がやるぞ! どうせ俺達がいるからできなくなって書けなくなるだろうがな、はっはっは!」

「魔物かどうか知らんが、魔物だったらなおさら書かせない! 書かせてなるものか! 奴らは戦う前から我ら人類にまた負けるんだ、ははははは!」


 そう意気込む住人をディネヴァーは、ただ黙って見ていた。


 翌日。


 総勢5000人の住民が武器片手に詰めかけ、取り囲んだ北教会への、直接の、落書きはされずに終わる。


「何じゃこれはぁ!?」


 武器を持った住民たちが驚きの声を上げた。


「そんなバカな!?」

「何時の間に!?」


 住民たちは、何も起きない長い夜にウトウトと寝て居た人も結構いた。


 その何十人かの服の隅に、落書きが書かれている。


「そんなバカな!?」


 住民は恐怖に戦慄いた。


「こんなこと人間には不可能だ!?」

「これは、もう間違いない! 魔物だ! これは人じゃない、魔物の仕業だ!」


 パニックになり、叫び出す。


「じゃ攻めてくるのか!?」

「空から降って攻めてくるんだよな魔物って!」

「逃げなくちゃ!」


 あと5日。


 と服に書かれた人たちは、もうこの落書きが単なる落書きとは思えなくなっていた。


 注意深く起きていた人も、自分達に気づかれず書かれたとあって、もうこの落書きが単なる落書きとは思えなくなっていた。


「何言ってんだ、爺さんらも戦ったんだ! 今度もやるぞ!」

「待てよ! そんな戦力どこにあるんだよ!?」

「早く、もう一度世界統合軍を編成し直さないと!」

「そ、それまで、どうなるんだ!?」

「俺達の街はどうなる!? 間に合わないぞ!」

「逃げろ一刻も早くこの街から!」


 翌日。


 あと4日。


 東北地区の教会にも、何事もないように文字は書かれた。


 新聞社は、


『今回の、わざわざ教会に書かれたカウントダウンは、ただの悪戯ではない可能性があり』


 と記事を大々と載せた。


『魔物の王である魔王ドリクと、人類との最後の戦いが終わって100年が経とうとしている。


 神の力を待った英雄バナサ・ガネリサとともに人類は、総人口の半分を失いつつも魔王ドリクをついに打ち滅ぼした。


 しかし、魔物が駆逐されたわけではない。


 人類から追われその数は激減したものの、世界各地に散らばり、人の住めない土地に隠れ住んだ。


 その魔物達が力を溜め、再び我々人類に襲い掛かろうとしているのではないか。


 何千人もの人の目をかいくぐり、あのような高い場所に、市民たちの服に、あのような文字を書くのは、人間技ではない。


 これは魔物による、宣戦布告のカウントダウンであり、最初の標的はジオの街だという宣告なのではないか。


 100年前同様、魔物が空から降って襲ってくるのではないかと、市民たちは怯えている。


 帝国政府も、この事態については把握しており――』


 ディネヴァーは、新聞を読むのをやめデスクの上に放り投げた。


 警備局は、世論を押さえるのに必死になっている。


 各地で住民たちがパニックになっていた。


 警備局へも、不安に駆られた多数の住民が殺到している。


 ディネヴァーの怒りは、部隊長の机が連なる第3課の室内を見渡してさらに大きくなった。


 ……くそっ、誰もが魔物の仕業と信じ切っている……。


 部隊長たちの、顔にはありありと出ていた。


 警備局に務めるにもかかわらず、こいつらも内心ビクついていやがる……。


「おい! しっかりしろ! 今夜こそ捕まえるんだ。こんな悪戯、もう悪戯では済まないところまで来ている! かならず捕まえこの混乱を収束させなくてはならない! わかってるな!」


 ディネヴァーは発破をかける。


「……はい、隊長」

「もちろんです……」


 反応が薄い部下に腹を立て、ディネヴァーは壁の方を向いて煙草を吸いだした。


 今夜はおそらく一周回って東地区の教会に書かれるものと推測し、警備局総出で完全封鎖する作戦を取る決断をする。


 ついでに夜間は街全土で外出禁止令が発令された。


 街中を警備兵が目を凝らし、監視する。


 街には警備兵があふれ、警備局にはひとりもいなくなるという、警備局の威信をかけての大作戦だった。


 そして翌日。


 東教会に、何も書かれなかった。


 もしかしたら、他の場所に書かれたのかとおもって探してもどこにもない。


 警備兵達の服にも、もちろんない。


 昇る朝日をに、警備局は勝利を確信した


 鳩も、勝利を讃えるように朝焼けの空を飛んでいる。


「なんだなんだ、犯人の奴、何もできなかったか」


 ディネヴァーは、教会内の窓から眺めながら、隣にいる第2警備隊長に太った顎を震わし笑った。


「しかし、捕まえなくてはならなかったがな……」


 第2警備隊長は言う。


「これから調査で必ず捕まえてやる」


 ディネヴァーが力強く言った。


「ああ、そうだな。……と、なんだ? 何か騒がしいな……」


 外に出ると、街の住民たちが気になって外に出てきていた。


 街中の人が、カウントダウンはどうなったのかを見るために押しかけてきたせいで、警備兵も押しとどめれずにいる。


 人の波が東教会前広場に群がっていた。


「ちょうど良い、俺から言ってやろう!」


 隊長は外へ飛び出す。


 そして英雄バナサ・ガネリサ像の台の上に登った。


「皆、今回はこの警備の成果でおかしな落書きはされなかった! 良いかみんな、こんなものは質の悪い悪戯だ! 魔物がやっただ? その魔物とやらは戦争を吹っかけて来るくせにコソコソ立ち回って落書きしているのか? しかも今回はできずにいるという間抜け野郎だ! もう一度言うぞ。これはどっかの馬鹿ガキがやったことだ! 魔物の動向は我々が監視している。魔物どもに動きなんてない。今後、我々はこの落書きバカを捕まえるために――」

「――おい、警備局だ、警備局にデカデカと書かれたらしいよ!」


 住民の中で汚い恰好の、乞食らしい男の子が叫ぶ。


「ルイス!?」

「隊長、こっちです!」


 あと3日。


 と、ルイスの言う通り、カウントダウンは誰もいない警備局の壁に、デカデカと書かれていた。


 住民のパニックは最高潮になる。


 徹夜の警備局は、休むこともままならず事態の鎮静化に動いた。


 皆が、魔物が攻めてくると叫んでいる。


 食べ物の奪い合いが起こっていた。


 移民が魔物の味方をしているというデマにより、暴行事件も起こっている。


 しかし住民同様、警備兵でさえ逃げ出す者が出てきている始末でうまく収束できず、逃げ出す人々で街道は渋滞になり、どさくさに紛れての犯罪が多発してしまう。


 警備局は緊急会議を行った。


 ジオ政府はこの事態を重く受け止め、帝国国務庁に報告し、その判断に従う事となる。


 ディネヴァーは、捕まえた空き巣集団を局の牢屋に連れて行く最中、ひとり考えていた。


 ……魔物の……わけがない……犯人がいるはずだ……。


 今回のを見ろ。俺達が東地区教会を囲んだから、誰もいない警備局に書くところを変えたじゃないか。


 ……しかし……それじゃ誰がやったんだ……?


 一体、どうやって書いたんだ……。


 それに……そもそもこれは一体、何のカウントダウンなんだ……?


 目的はなんなんだ?


 ディネヴァーだけが、今も、人の仕業と信じている。


 あと2日。


 ジオ行政局の壁に、カウントダウンは書かれた。


 早朝、帝国政府からの伝書鳩が帰ってくる。


『会議の結果、ジオ政府は非常事態を鑑みて、街から住民を退避させるよう努めるように。


 もし何事もなければ、早急に住民を街に戻し事態の収束し、市民の生活の安寧を作るよう努めるように。


 こちらでは帝国軍派遣の準備をしている。カウントダウンが終わった後、派遣の決定を判断す』


 警備局は、住民たちに緊急避難命令を出した。


 警備兵の守護の元、ジオの街から人々は移動を開始する。


 あと1日。


 東教会に、その文字は書かれた。


 誰もいなくなった通りを、野良猫と野良犬が我が物顔で歩く。


 道には、パニックになって逃げだした際に落とした、脱げた靴や子供のおもちゃなどがそこら中に落ちていた。


 街に残っているのは、確認のために待機している数人の警備兵と、逃げられない病人のために残った数人の医者達だけ。


 ディネヴァーは待機組に志願した。


 ディネヴァーは病院背後にある丘に、ひとり向かう。


  高さ200メドルの平和記念碑だけがある開けた台地は、ジオの街が見下ろせる観光スポット。そのごみ箱の中を片付け空っぽにした。


 ディネヴァー以外の警備兵は、魔物軍の定形戦略である空からの襲撃だろうと予測して、地下から様子を窺っている。


 してこない、ともおもったが、書いてきたか……。


 大きなごみ箱の中にその巨漢をぎゅうぎゅう詰めになりながら、ディネヴァーは、予想が外れて少しムカムカしている。


 どうせこの事態になって、犯人も一緒になって街から出て行ったと思っていたが……。


「ちっ、まだ続ける気か……」


 ……この街のどこかに隠れてやがるな……。


 ……この丘なら、ジオの街が見下ろせる。


 ……犯人は……きっと続けるつもりだ……一体何をするつもりかはしらんが……。


 何が起こるか……ここなら、全て特等席で確認できる。


 この目で見てやる。


 ……もし……万が一魔物だったなら……だったなら、下の病院を守るために戦おう……。


 やがて、太陽は沈み、半分の月が登った。


 そして静かに沈もうとしていく。


 ディネヴァーは、ずっと起きていた。


 起こるとしたら朝になってからだろう、とはおもったが、彼は一切眠くならなかった。

 

 まっくらなごみ箱の中で回りの様子も時間もわからないまま、その時が来るまでじっと待った。


 そして、東の空がぼんやり明るくなったころだった。


「ん?」


 ……足音?


 ディネヴァーは息をひそめる。


 ……警備兵か?

 

――違う。


 軍靴の足音じゃないぞ。


 足音はふたつ……。


 ……誰だ? 住民は皆非難したはず……。


 ……、……こっちに来る……。


 ディネヴァーは、腰の剣に手を伸ばす。


 ふたつの足音は、ディネヴァーの潜むゴミ箱のすぐ横で止まった。


「まさか、人間共がこんなにもバカだったなんて」


 止まった足音の主のひとりが、笑い声と共にそう言う。


「こんな大事になるなんて、びっくりだよ」


 さっきとは別の人が言った。


 ……この声……?


 ディネヴァーは耳を澄ませる。


「ゼロになっても何も起こらないのに勝手に深読みして、ゼロになったら何が起こると、大騒ぎして怖がってパニックになってたぞ。はっはっはっはっは」


 大笑いする声が、しわがれていた。


――犯人!?


 ディネヴァーに緊張が走る。


 握った剣を強く握った。


 ……声からして老人か?


「勝手な決め込みで、本当にゼロになった時に街の治安は崩壊してしまった。ははは、皮肉なもんだな」

「僕の奇術師としての思い付きも大したもんでしょ」


 もうひとりがキンキンした、元気で無邪気な声で自慢げに言う。


 ディネヴァーに戦慄が走った。


 もうひとりは子供の声だな……しかし……。


「警備兵に南西教会を囲まれた時は、まさか飛ばして書き上げるなんて、ビックリだよ」

「針に糸を通すくらいのむずさだった。しかし、緊張したのはその次だ。人間どもめ、大挙して押し寄せてきた。しかし、ぷぷぷ――」


 しわがれた笑い声が、楽しそうに躍動していた。


「――どうしようかと思ったが、しかし、途中で寝る奴がいるとはな。あのバカらの服にこっそり書いてやったら、人間どもめ怖がってたな、ぷぷぷ」

「警備局が空になるくらい本気出してきた時は、さすがの師匠も駄目だったけどね」

「うるさい、私の弱まった力では限界もある。そのかわり警備局には一番デカいのを書いてやった、はっはっは」


 ……何を言ってる……。


 ディネヴァーは、困惑していた。


 ……ぶん投げて書き上げただと……?


「何も起きないとわかったら、街の人すぐ帰ってくるよ。こんどはどんな悪戯してやろう、師匠」


 元気で無邪気な声が言った。


 この声は……、この声は……。


 ディネヴァーの剣を握る手が震える。


「……いや、もう良い」


 しわがれた声が、暖かい口調になって言った。


「へ?」

「もうバカバカしくなったんだ……。もう良い。お前ももう満足だろ。姉を殺された家からは散々ふんだくったじゃないか。夢だった奇術師を目指せ。わしが死んだらホントにあげよう。タネの状態で渡すから鍛えれば、中々なものになるかもしれんぞ」


 ディネヴァーはそっと、ゴミ箱から顔を出して様子を窺いだす。


 ……この目で見るまで、信じれるか……。


 ディネヴァーが顔を出すと、2人の全身を横から確認できた。

 

 丘から街を望みながら話している長身の老人と子供。


 足元にはペンキの入ったバケツがあった。


 ……ああ、やはりそうだった……。


 ディネヴァーは、自分の目が信じられなかった。


「うん。まぁそうだね。師匠が良いってんなら僕ももう良いや、へへ」


 子供が微笑む。


 ルイス……何を笑っている……。


「人間のこんなバカな様子を見ては恨みなんてどうでもよくなった。私は普通に人間として暮らすよ」


 老人が微笑み返した。


 ……恨み? ……何を言ってる……。


 ディネヴァーはじっと老人を見つめる。


 待てよ、あいつ……あの爺さんも見たことがあるぞ……。


 ……そうだ……思い出した……。


 ……前に講演をやっていた……ルイスの言ってた……。


   2


『夜の部  大奇術師フーランの奇術ショー! ビックリ仰天の連続だよ! 本日最終日』


 ジオの東地区にある、ニコニコ劇場に看板が立てかけられている。


 フーランは、ここで1週間の興行を行っていた。


 舞台が始まると、50人の観客がヨボヨボの老人に拍手を送る。


 真っ白な面長に、背びれみたいな大きな鼻、ピンと決まったW型の髭、シルクハットに黒マントを羽織ったフーランは、驚くほど長細い手足をピシッとそろえ、観客に深々とお辞儀した。


 そして、さっそくトランプを何も持ってない皺手から出現させる。


 そして手をクルッとさせ、そのトランプを消した。


 フーランが、手をクルッとさせる度にトランプは現れ消える。


 この手品のタネは、手の向きを変える度にトランプを手の裏に瞬時に送るというものだ。


 手の表と裏を使ってトランプを扱い、移すときにトランプを翻るのも見せないで、音もさせず行い、タネに気づかせずに行うには、相当な訓練がいる。


 しかしフーランは、そのような訓練は一切していなかった。


――パチパチパチパチ


 タネを知っていても、本当に現れ消えているように見えるフーランの奇術に、観客が拍手を送る。


「ありがとうございます」


 フーランが、拍手に笑顔を作り答えた。


「さて、お次は世にも不思議な浮遊術をお見せしましょう」


 と手に持ったトランプを1枚宙に放り投げる。


 フーランは両手をトランプに向け、突き出した。


 するとトランプは床に落ちず、空中でふわふわ浮き、フーランの手の動きに合わせて、観客席の上を一周する。


――パチパチパチパチ


 拍手がフーランに送られた。


「では、おつぎは観客の皆様に手伝ってもらいたいのです。どなたか手伝ってくれる方はおりませんか?」

「はい、はいはいはーい!」


 元気よく、小さな手を上がる。


「……ああ、ではそこの……? ……可愛らしい……坊ちゃん……」


 フーランは、汚いと言いそうになるのを押さえて言った


   ◇


 2時間後、フーランは興行の最終日を終え劇場を後にする。


 裏口から出たフーランは、ふと立ち止まった。


 ジオの街に浮かぶ三日月を見上げ、この日々を憂う。


 ……毎日のバンを買うので精一杯……この公演で、久々にまとまった金が手に入る……それで……うるさい借金を返さないと……。


 フーランは、マントで細長い体を包んだ。


 まだ夜は肌寒かった。


 ……寿命はもう残り少ない。


 フーランは強く思った。


 ……まだ……まだだ……まだ私は終わってない……。


 しかしフーランのその思いは、日々弱くなっている。


 ……復讐を……するんだ……。


「ドリク」


 突然、呼び止められてフーランは振り返った。


「お前は?」


 男の子が立っていた。


 酒粕色の手織りの胴着をまとい、短い胴体から短い手足がぴょこんと伸ばし、丸坊主の顔に2つあるまん丸の目を輝かせて、男の子はフーランを見つめている。


「ねぇ、僕を助手にしてくれよ」

「お前今なんて言った?」


 男の子は首を傾げた。


「おじいさんって呼んだだけでけど?」

「……」


 気のせいか……。


「……あっちいけ……」


 シッシとフーランは手で払う。


「そんなこと言わずにさ。ねぇおじいさんの奇術に感動したんだよ」


 そう言う男の子を見て、フーランは気づいた。


「お前、さっきいた小僧か?」

「うん、そう。まさかナイフを9本、鳩を9羽も出すなんて思いもしなかったよ」

「汚い格好だな」

「子供じゃ誰も雇ってくれなくてね。乞食してるんだ。親が死んで以来この道3年だ」


 どうりで汚かったわけだ。……しかし……、


「しかし、どうやって中に入れたんだ。金なんかないだろう」

「貯めた。毎日、ご飯を抜いて、少しづづ貯めて、昨日今日は何も食わないで、で今夜、優しい隊長さんにお金を貰えて、間に合ったよ」

「ははははははははは」


 フーランはしわがれた声で、大笑いした。


「馬鹿な奴、もっと金の使い方を考えろ」

「どうして?」


 男の子が、首をかしげる。


「おじいさんの奇術、すごかったよ」


 とニコッと笑顔になった。


「僕、奇術師になりたいんだ。それもおじいさんみたいな」

「私みたいに?」

「うん。だから僕を助手にして。他の奇術師は皆、助手いるよ。ねぇ、お金なんていらない。そのかわり奇術を教えて」

「……ふんっ」


 フーランは鼻で笑う。


「他に頼みな」

「駄目だよ、おじいさんでなきゃ。他のはタダの手品だもん。僕、どうせなるならタネなんかない本物の奇術師になりたいよ」


 フーランが、びくっと眉を吊り上げた。


「何だって? バカな事を。ははは。タネはあるに決まってるだろう」

「魔王でしょ。さっき読んだら振り向いたもんね。さっきの奇術は本物でしょ。魔王ドリクはやっぱり生きていたんだね、都市伝――」

「――だまれ……」


 フーランは、男の子に歩み寄る。


 どうするべきか。


 フーランは男の子の首に手をかける。


 ……ここで殺しても、魔力の弱まった自分に、見つからずに遺体処理などできるのか……?


 首を弱く締められている男の子は、恐怖に震えだしていた。


 こんな乞食の小僧の戯言、誰も相手にしないか……。


 しかし、なぜバレたかは聞かないといけないな。


「ねぇ、人間を恨んでる?」


 男の子は、震える声でフーランに尋ねる。


 質問の意図が分からないフーランは、無言で男の子を見つめた。


「僕も嫌い。おねぇちゃん達を殺して、僕をいじめて、騙して、そんな皆が、嫌いなんだ……」


 首にかけた手に、力を込める。


「本当のことを言え。どうやって私の正体が分かった。どうやって本物の魔法とわかった」

「今日、手伝ったでしょ。前にお姉ちゃんと一緒に見に来た事があるんだ。その時だよ……。今日だって、やっぱりタネなんてなかったもん……。僕の目を舐めないで。本物と偽物の区別ぐらいできるよ……」


 フーランは少し力を弱めた。


「それで」

「魔法を使えるのは、魔物だけ……。それで、知ってる魔物の名前を、魔王の名前を言って、僕に振り向いてもらおうと思って……それで……あてずっぽうさ……。」

「……もういい」


 フーランは、手を放した。


 久々に本名を呼ばれて反応してしまった自分に嫌になった。


 ついでに境遇が同じなところにも、奇妙な感情が芽生えそうと、嫌になっていた。


「僕も復讐したいんだ。人なんて嫌いだよ。ドリク様の子分になるよ。ねぇお願い、僕を仲間にして。魔法を教えて」


 フーランは、男の子から顔をそむけ口角を吊り上げる。


 それは、仲間と聞いて少し喜んでしまった自分に対してだった。


「僕はルイスって言います。お願いします!」


 男の子はフーランに土下座する。


 この100年、ひとりで隠れ住んでいたドリクの心は、この時、不意に揺れた。


「……良いぞ。ちょうど小間使いが欲しかったんだ」

「ホントに!?」


 ルイスが喜んで飛び跳ねる。


「ああ、魔法ももそうだな、気が向いたら魔力もあげてやってもいい」


   3


「魔王様が、人間として?」


 ルイスは、フーランを真顔で見つめる。


「ああ、おもえばあれから一緒に仕事をしているうちに、えらく仲良くなったもんだな、お前とも。ははははは」


 聞き耳を立てているディネヴァーは、耳を疑った。


 ……魔王……?


「じゃ、こんどは僕が、魔王様の魔力を使ってできる奇術を考えるよ」


 ルイスはまた微笑んで言った。


「ははは、頼むぞ」


 フーランも答えてほほ笑む。


「さっさいごに0を書こう、で、その横にでっかくバーカって書いちゃえ」

「さて、最後の仕事だ」


 フーランが、ペンキのバケツに手をかざした。


――なんだとっ……。


 ディネヴァーは、驚きのあまり声を出しそうになる口を押える。


 バケツが宙に浮き、ひとりでに平和記念碑へと向かっていった。


 フーランは両手を突き出し、指揮者のように手を動かし始める。


 それに合わせて、宙に浮いたバケツから刷毛が飛び出して、魔物との戦いを終えて建てられた記念碑に、大きな0を書き始めた。


 ……なんてことだ、あれは魔法だ……。


 ああやって書いていたのか……ホントに魔物の仕業だったとは……。


 ディネヴァーは、生唾を飲み込む。


 魔法をつかえるという事は、あの老人は、魔物だ……。


 ルイスは、魔王と、言っていた……。


 まさか……そんなまさか……ありえないっ――


――ゴトッ


 物音に、フーランとルイスはゴミ箱に目をやった。


――しまった!


 つい驚きのあまり、バランスを崩し音を立ててしまったディネヴァーは、息を殺し固まる。


「誰だ、そこにいる奴は」


 フーランが、ペンキを下に降ろした。


「何? 師匠、猫かなんかだよ、誰も居るわけないよ」

「違う」


 フーランがゆっくり歩き始める。


「私としたことが油断してしまった。臭いでわかるよ、人の匂いがゴミ箱の中からしている」


 ……くそ、ゴミ箱の外の声が近づいてくる……。


 ディネヴァーは、迫る足音に剣を握りしめ覚悟を決めた。


「動くな!」


 ディネヴァーがゴミ箱から飛び出す。と同時に剣を引き抜いた。


「ルイス、そこで何をしている!」


 乞食の少年ルイスは、驚いて後退る。


「隊長!? どうしてそこに!?」


 ディネヴァーは剣先をフーランに向けた。


「話は全部聞かしてもらった。そして……記念碑に落書きする所も……すべて見た」


 フーランは、ディネヴァーを睨みながら後退る。


「魔物め。いや……魔王なのか、お前? ……死んだはずだが……」

「……だが、死体は見つかってなかっただろう……」


 フーランは、呟くようにディネヴァーに言った。


「……」


 ディネヴァーは、ただ疑念を込めて睨みつけるだけだった。


 それとは逆にフーランの口が、もごもごと動く。


 しかし、何も言わない。


 言おうとして迷っていた。


「隊長、聞いて! 剣を置いてよ!」


 ルイスが前に出て叫ぶ。


 それを見たフーランは、意を決してルイスの肩を掴み引き戻した。


「いや、良いんだ。そうだ、私は魔王ドリクだ。だが、もう力はない。バナリサとの戦いの果てに死にかけ、逃げるのが精いっぱいでな。その時回復するためにほとんど力を失ってしまった」


 ディネヴァーはフーランにじりじりと近づく。


「本当に、本当に魔王……なのか……?」


 ディネヴァーが疑いのこもった問いを掛けた。


「そうだ」


 フーランは微笑んで答える。


「変身を少し解こう」


 そう言って、おもむろに顔を両手で触った。


 するとフーランの皮膚が風雨に崩れた壁ように剥がれ、中からっ赤な皮膚と大きな目玉が現れる。


 そのギョロ目の赤い顔は、ディネヴァーが学生の頃に教科書で見た魔王の顔そのものだった。


「聞いてくれ」


 フーランの鋭くとがった牙を持った口が、そう発した。


「そこで盗み聞きしてたのなら聞いただろう。私はもうここで1人の人間として暮らしていくつもりだ。もう何もしない。力もなくなったのも本当だ。だから今までこうして隠れて暮らしていた。これからも、ただの老いた奇術師として、先の短い命を生きていく」

「黙れ! これだけの事をして何が、もう何もしないだ! 魔物め、ここで殺してやる!」


 ディネヴァーが怒鳴り、切っ先をドリクに突き付けた。


「違うよ隊長! 僕が言ったんだ。こうすれば皆ビビるよって! ただの悪戯のつもりだったんだよ! だから僕が悪いんだ!」


 ルイスが叫んで、フーランとディネヴァーの飛び込む。


「黙れ! お前は魔物がどんなに危険かわからないんだ。そこをどけ!」

「違う、師匠は危険じゃないよ! もうホントにほとんど魔力なんてないんだ!」

「それなら好都合だ!」


 ディネヴァーが切っ先を突き付けたまま、フーランに突進した。


「ぐぅっ」


 苦い顔してフーランが後退り、素早く体勢を整え、魔法を発動させる。


――カキンッ。


 ディネヴァーの薙ぎ払った剣先を、フーランの手に、急に現れたナイフが受け止めた。


「これが、魔法……か……」


 ディネヴァーは困惑しつつも、冷静に身を屈め戦闘態勢に入る。


「こんな手品の真似事しかできない。もう私にはそれくらいの力しかない……」


 フーランがナイフを構えたまま後退った。


「やめて!」


 ルイスが叫ぶ。


「やめてよ、隊長!」


 ディネヴァーは無視し、じりじりと距離を縮め続けた。


「待て、戦いたくないんだ」


 と繰り返し言って、フーランはゆっくり後退り続ける。


 突如、ディネヴァーが踏み込んだ。


「死ね!」


 切っ先がフーランに向け伸びていく。


 赤い血が地面に飛びちった。


 ディネヴァーは驚いて、跳び退る。


 ドバっと血が噴き出し、地面が濡れた。


 2人共が動揺し、互いに動けなくなる。


 ルイスがお腹を押さえ、地面に頭から倒れた。


 その鈍い音がフーランの耳に入った瞬間、フーランはナイフを捨てて、ルイスに駆け寄る。


「大丈夫か! ルイス!」

「ううぅ……ああ……」


 そのお腹からは、血がドクドクと噴き出ていた。


「……痛い……」


 そう訴える、ルイスの声が弱い。


 ディネヴァーは血が下たる剣を見て、すさまじい嫌悪感を感じ投げ捨てる。


「どけ! 魔物め、触るな!」


 ルイスに駆け寄ったディネヴァーは、フーランからルイスを引き離し、抱きかかえる。


「ああ……痛いよ……痛……い……」


 弱く訴える声が、だんだんと小さくなっていった。


「いきなり飛び出す奴があるか! 病院に、すぐに向かうからな!」

「間に合わない、ここから病院へ行く前に死んでしまう」


 フーランはディネヴァーを引き留める。


「離せ!」

「待て、走ってはという事だ」


 フーランは、ディネヴァーに両掌を向けた。


 ディネヴァーの体がよろよろと浮く。


「な、何を!」

「このまま、下まで直行、するぞ、あまり動くな」


 フーランは顔を歪め言った。


 2人の体が丘の上から、柵を越えて飛び出す。


 ディネヴァーは、ルイスを落ちないように抱き寄せた。


「おい、下ろせ。お前など信用できるか!」

「信じろ、それにここで降ろしたら死ぬぞ。あまり騒ぐな力が入れにくいだろうが」


 ディネヴァーはふと見た足元の高さに身を縮める。


「大丈夫なんだろうな!」

「ああ、信じろ。これくらい……なんともない……」


 丘の下の、200メドル下の病院の屋根をフーランは確認する。


「降ろすぞ……」


 その額に汗が流れていた。


 ゆっくりとディネヴァーの体が、丘をまっすぐ病院へ向け降りていく。


 その体が頂上から遠くになるにつれ、ゆらゆら揺れ出した。


「なんだなんだ? フラフラしてるぞ……くそっ、あの野郎……」


 ディネヴァーはまた見てしまった遠い地面に身を縮めた。


「まだまだ高いな――ああっ」


 瞬間、体が自由落下していく。


「ああああああ!」


 1秒ほどで落下が止まり、またフラフラ降り始めた。


「――ああっ! ふざけんな、あの野郎……」


 丘の上では、フーランが苦しそうに力を振り絞っていた。


 ……どこまで持つだろうか……。


 ……重い……あのクソデブ……。


 情けない……昔は何万もの軍勢を送り込んでやったと言うのに……。


「はぁ、はぁはぁ……」


 汗は体中から吹き出て、息が苦しくなる。


 ……なんとしても、病院まで、飛ばして見せる……。


 ……ルイス……。


 フーランは力を振り絞る。


 ……。


 ……。


 ……よく見えないな……。


 着地したら合図を知ろよ、あのデブ……。


 ……。


 ……。


 ディネヴァーが着地したと合図したのと、フーランが倒れるのはほぼ同時だった。


 ディネヴァーは病院の庭を駆け抜け、バリケードを張った入口から医者達に怒鳴り散らし、すぐに開けるように迫った。


   ◇


 しばらくして、住人たちが街に帰ってきた。


 その頃、気を取り直したフーランが、ルイスのいる病室にやってくる。


「やっと来たか……来ないと思ったぞ……」


 ディネヴァーはフーランを横目で確認すると、剣に手を掛けながら力なく椅子から立ち上がった。


「……どういう事だ、これは……」


 尋ねる声が震えている。


 ベッドで寝ているルイスの顔に白いハンカチがかかっていた。


「間に……合わなかったのか?」

「……ああ……」


 ディネヴァーは俯き答える。


「そんなっ」


 フーランは、膝から崩れ落ちた。


「もう潮時だ……。私はもう生きた……。寿命も残り少ない……。私を殺せ、もう抵抗もしない……ああ、あああぁぁぁぁ……」


 背中を丸め、長身を小さく丸め、嗚咽しだす。


 ディネヴァーは、その細く弱そうな背中を丸め、泣くのを堪えれずにいる姿を見て、やはり、何か分かり合えた気がした。


 扉が開き、医者が入ってくる。


「あれ? ディネヴァー隊長、この方はどなたですか?」


 医者がうずくまっているフーランを見て、困惑しながら尋ねた。


「その子のお爺さんだ。奇術師をやっていてな。今やっと到着した。私は帰るとするよ」

「……え?」


 フーランが驚いて、ディネヴァーを見た。


「ああ、ご家族の方でしたか……。しかし、なぜ泣いてるんですか……?」


 質問にフーランが困惑して、医者を見る。


「な、なぜって……」

「ははははは。じゃあな奇術師。仕返しだよ」


 ディネヴァーが医者に一瞥して病室の扉へと歩いて行った。


「……心配するな。その子が悲しむことはしたくない。共に暮らせれるならそれが一番だ」


 そう言って後ろ手に手を振り、病室を後にする。


「まったく、隊長もひどい悪戯をしますね。なんか、カウントダウンも、何にもなかったみたいですよ。やっぱり悪戯だったんですかね。誰がやったんだか、とんでもない奴ですよ」」


 医者がルイスの顔からハンカチを取った。


 ハンカチの下には、申し訳なさそうな顔をしているルイスの顔があった。


「あの、違うよ師匠、僕が思いついた悪戯なんだ。隊長が一泡吹かせたいって言うもんだから。まさか、こんなに師匠が泣いちゃうなんて、すいません」


 ルイスが、起き上がって頭を下げる。


「ああ……はははは、これからとんでもなく良い奇術師になるぞ、こんな事を考えた奴は。はっはっは」

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魔王 月コーヒー @akasawaon

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