壁に恋した男

さつまいも隼人

壁に恋した男

 死のうとした。

 水面は陽の光を浴びて、嬉しそうに煌めいている。そんな幼さを孕む反面、一度下流に目を向ければ囂々と石流が流れを作っていた。そんな流れの頂に私は黒い革靴を脱ぎ捨てて、その上に二十余年連れそった荒々しい文字に不似合いな「遺書」と書かれた白封筒を置いて、身を投じようと考えた。

 玉砂利に似た音が私の足元を支配してやまない。すっと青空を見上げ、深く息を吸い込む。それを三度繰り返した後、私はいよいよ右足から流れに身を入れた。ゆっくりと動くので、水はちゃぽんとも何も返事はしてくれなんだ。

 ふと、桜の花びらがどこからか、さあ……ぁと舞い踊るように流れてきた。私は、その美しい花弁があの石流に巻き込まれ、絡み合い、汚れ、最後には海の藻屑と化すのだと思うと、自分の運命を呪うことを禁じ得なかった。

 私は春先の寒さを感じながら歩をすすめた。

 さあ、いよいよ腰の辺りまで浸かってきたぞという時、私は今まで見ていた方ではなく、先ほどまで自分がいた方をふと、眺めたのである。

 するとどうだろう。山の茂りに隠れて、古びた橋がかかっているではないか。死のうとした自分だったけれど、あまりにも突然出てきたそれには興味をそそられずにはいられなかった。と言っても、死ぬのはやめない。しかし、見ることもやめられぬ。そうして私は、その橋をじっと見つめながら下流まで流れていくことにした。側から見れば、なんともおかしな光景であるが、ここは何もない、誰もいない場所である。どうして人目など気にしていられよう。

 じっとその橋を見ていると、その橋のことが鮮明に私の目に映るのだ。まず、その橋は赤い縄で吊られた木製の古びたものである。何十、いや若しかすると何百年も前のものかも知れなかった。しかし、その考えは次に私の目に入ってきたものによってたちまち否定されることとなった。

 コンクリートだ。

 コンクリートの地面の上に橋がかかっているではないか。そう思えば、その橋もどこか新しく感じられる。ひょっとすると、近年の災害であのよいに朽ち果ててしまったのでは? と思えるほどであった。

 魅入られた。

 灰色とゴツゴツとした岩肌のような風貌に私は、目が離せなくなった。愛しいとさえ、思ったのである。

 死に際の苦し紛れの情欲か、はたまた、気が狂ってしまったのか。それを確認する術は私には残されておらず、ただ、川から悶えるように浮き上がっている自分がいた。

 重い。

 私の服は、はしゃいで水の中に入っていくワンコロのそれと同じになっていた。口の中に入った水を吐き出す。

 私は歩き出した。そのコンクリートの壁に向かって、真っ直ぐと。

 私の後方には、殺された者が最後の力を振り絞って歩いたように、砂利石が色を変えた跡が残った。


 美しい。

 自分よりもずっと高いコンクリートの壁を見つめる。

 美しい。

 息をのむ。

 美しい。

 情欲とは、色欲とはこういうことを言うのだろうなと私は直感する。思わず、目じりが熱くなる。

 私は、静かに壁にもたれかかる。こうしていると、私の耳に壁の意思が届くようだ。吐き出すような美しさと今、私の頬がぶつかり合っているのだ。そう思えば、全身が風呂にでも入ったかのように熱くほてりだす。これが、これがまだ気力のあるうちに感じられれば、私は生きることが出来ただろうか。そんなことを

苦悩する時間はもう、とうに過ぎたと、私は頬以外の部分も壁に沿わせる。私の肉体は、壁によっていくらか削られた。私の肉片が、血液が壁に付着する。それが、どうしてだろう。汚らわしく思うのだ。しかし、同時に鬱屈したこの気持ちが、いくらか晴れ渡るように嗜虐心が生まれるのを、私は感じ取ることができた。

 どうしようもなく、美しく感じる。ただ、犯したくもある。生まれてこのかた、持ち合わせたことのない感情に困惑しながらも、もう死ぬのだ。最期くらい、己の内なる欲望に従っても、誰も罰は与えまい。

 ああ、ああ……。美しい……。

 気づけば私は、その壁を犯すように痛めつけるように、己の臓物をぶちまけていた。私の体内から滴り落ちる液体の全てが壁の色を変えていく。なんと、なんと汚らわしいものだろう。喉元が締め付けられるように熱い。熱い。熱い。

 どうして、どうしてこんなにも。

 悦楽も快楽も。その全てが私の細胞を刺激する。今すぐに全てを押し付けたい。私の体はもとより、私の過去も未来も想いも。

 これを全てぶちまければ楽になれるだろうか。解放されるだろうか。

 つまらない人生から、光ある地獄へと、逝けるだろうか。

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