鬼:Welcome to 非日常
朝の微睡を楽しんだのち、そろそろ起きなければ、と体を起こす。
日差しの位置から察するに、どうやら午前というよりも、昼に近い時間のようだ。そのまま軽くストレッチをし、体を目覚めさせる。
「おはようございます」
「おはようございます。朝ご飯できてますよ」
着替えて一階に降りると香奈さんがいたので挨拶を交わす。いつものエプロン姿で、手には雑巾を持っている。
「ありがとう、今からいただきます。あ、今日ちょっと出かけようと思うんだけど、お弁当を作ってもらってもいいですか?」
「かしこまりました。すぐに用意しますので少々お待ちください」
そういうと香奈さんはパタパタと食事部屋の方に駆けていったのでその後を追った。
僕が食堂に入るとテーブルの上には香奈さんお手製と思われる焼きたてのパンが複数種類バゲットに詰め込まれており、パンの焼き上げられた匂いが食欲をそそる。その脇にジャムとバターの他、オリーブオイルに塩を落としたものが添えられていた。僕が席に着くと同時に香奈さんが淹れてくれたコーヒーを味わいながらパンを食べていると、
「はい、こちらをどうぞ」
と香奈さんが包みを渡してきた。
「おにぎりと、簡単につまめるものしかないですが」
そう謙遜する香奈さんに礼を言う。
入ってきたときに気づいたが、食堂にいるのは香奈さんと僕だけであった。
「朋美ちゃんならもう食べ終わってトレーニングを始めてますよ」
そんな僕の姿を見透かしたかのように香奈さんが笑顔で話しかけてきた。
「私が来た時にはちょうど食事が終わって部屋に戻るときだったんですけど、ちょっと…思いつめていたみたいでしたね」
「そうですか…」
「もしかして昨日、何かあったんですか?」
いたずらっぽい表情でこちらににじり寄る香奈さん。
「一緒に買い物に出かけたんですよ」
「あら!デートってこと!?朋美ちゃんも隅におけないわー」
頬に手を当て、身をよじらせる香奈さん。どうやらこういった話は香奈さんの興味を大いにかきたてられるものであるらしい。
「で?どうだったの?」
「ちょっとひと悶着ありましたけど、楽しかったですよ」
「あら、二人が喧嘩するなんて珍しいですね」
「いえ、知らない人に絡まれちゃいまして…」
「無粋な男ねー。そんなやつ馬にけられて死んじゃえばいいのよ!菱也様、もしそんな奴がいたら次は必ずあたしに教えてくださいね!
そしたらこうしてやるわ、と言いながらシャドーボクシングのまねごとをする香奈さん。
小柄な香奈さんの後ろに隠れる高校生男子…非常に情けない絵面だ。
「あはは…もしそんなことがあればお願いします」
ひきつった顔になっていることを自覚しながら返事をする。
「それで、今日はどこに行くの?」
屋敷の外は朋美ちゃんがいないとダメよね、と続ける香奈さん。
「山に行こうと思ってます」
「あー、聖霊山ね。あそこは普段は教主様以外の人は入れないから菱也様一人で行くのかしら。それはちょっと心配ねー」
「ちょっとハイキング程度に登るだけですから…何かあったらすぐ帰りますし」
「それならいいけど…念のため朋美ちゃんたちに伝えておくわね」
そういいながらスマートフォンのアプリを起動し、どこかに連絡を取る。
「ありがとうございます。では僕はこれで」
食事を済ませ、後片付けは自分がやるという香奈さんに甘え、部屋を出ようとする。
「ちょっと待ってください。伝え忘れたことがありました」
僕の背後から香奈さんが呼び止めてきた。
「何です?」
「今日は漸魂会の日だから、夕食は教主様と一緒に開催する予定になってます。山に登るのもいいですけど、あまり遅くなりすぎないようにしてくださいね」
漸魂会というのは漸諫教の幹部たちによる報告会であり、不定期に教主の家、つまりここで開催される。
この日は普段家にいない父親が帰ってくるため、夕食は家族のみで卓を囲むのが習わしとなっている。教主様直々に召し上がるということで、毎回香奈さんが気合を入れて料理を作るのだ。
「ちょっと出るだけなので、あまり遅くはならないと思いますが、わかりました。」
「よろしくお願いします。本日は腕によりをかけた料理でお待ちしておりますので」
父との食事は憂鬱だが、香奈さんの食事は楽しみだ。そんな気持ちで僕は食堂を後にした。
朝食を済ませて少し休憩したのち、僕は聖霊山へと足を向けた。
「聖霊山へ向かわれるのですか、危ないところには行かず、安全を第一にお気を付けください」
途中でトレーニング中の朋美さんに出会ったので、挨拶がてらどこに行くかを伝えると、すでに香奈さんから連絡が来ていたのか、あっさりとそう答えた。まるで母親のように話すその左手首にはいつも巻いているシュシュとは別に、光にまぶしく反応しているものがあった。
「あ、昨日の、つけてくれてるんだ」
「…はい、これは私の宝物です。一生大切にします」
大事そうに手首をさすり、嬉しそうに告げる朋美さんにこちらもどう返事をすればいいかわからなかった。
「…では、私はこれで。お屋敷の外に出る場合は必ずお伝えくださいね」
沈黙を破り、朋美さんはそう告げると、頭を下げ、トレーニングに戻っていった。
「あんなに喜んでくれるならプレゼントした甲斐があるってもんだ」
その後、山のふもとまでたどり着いた僕は修行用の道路として踏みならされた狭い道を歩いていた。道の脇は草木が生い茂り、密集している高い木の陰に隠れ日差しが遮られているため視界は薄暗く、何が出てもおかしくないように思える。
「まぁそんなこといっても熊とか鹿は出てこないんだけどね」
そう呟きながら歩みを進める。
最近は山から動物が下りてきて、作物に被害を与えたり、運悪く出くわした住人が怪我をする事件が起こっており、一部ニュースでは野生動物の危機をあおるセンセーショナルな見出しで取りざたされているようだ。動物と出くわすも運よく逃げることに成功した人の中には「人の声が聞こえた」などとマイクに向かって捲し立てており、動物を操る黒幕がいるんだと陰謀めいたことを主張する者もいるそうだ。
「って、ジャングルブックじゃないんだから…」
警察としては野生動物に出会い、動揺した人の聞き間違いとして取り扱っており、暫定対応として野生動物の住処に踏み入れる際は注意することを呼び掛けている。
「でもこれは心細くなる気持ちもわかるなぁ…」
薄暗く、人の声が聞こえないこの空間は、否が応でも耳を澄ませてしまう。そうすると自分の体を動かすことで発生する音が思ったより小さく、木々の揺れる音、聞いたことのない鳥の鳴き声、小さな動物が地面に落ちた葉を踏みならす音など多種多様な音が絶えず自分の周りに響き渡ることを嫌が応にも自覚し、非常に落ち着かなくなる。
「ちょっと休憩するか」
1時間ほど黙々と進んだのち、ちょうど腰かけられそうな大きさの石が道端に転がっていたのでその上に腰かけることにする。背負ったリュックから水筒を取り出し、冷たい水を喉奥に流し込んだ。のどを潤し、一息つくとなんともなしに頭上を見上げる。そこは木々に紛れて光が差し込んでいた。
「ここには誰もいない、それがこんなに落ち着くとはねぇ…」
どこか不安を誘うこの森はその一方でかつてない安心を僕に与えていた。
「モーグリが羨ましいよ」
思わず自嘲の笑みが浮かぶ。
「もういっそ逃げちゃおっかな」
「ここではないどこかで」
「見ず知らずの人々に囲まれながら」
「普通の仕事に就くことができれば」
――僕も幸せになれるのかなぁ
思いが滝のように口から突き出してきたが、なぜか最後の一言は言葉にすることができなかった。
「なーんて、浸りモード終わりっ」
滲む視界をぬぐい、立ち上がる、さて探索を続けようかと足を進めた際に
「…?」
視界の端で草が不自然に揺れた気がした。
顔を向けると、そこにはかき分けられた草むらを足場に、一匹の動物がこちらを見つめていた。
「これは…イタチ?」
特徴的な白い毛並みに細長い体躯から頭を持ち上げていたその動物は僕と目が合うと一瞬見つめあったかと思うと身をひるがえして駆けだして行った。
その後ろ姿を見送っている内に妙なことに気づく。
「これは…けもの道か?」
さっきまで草むらに覆われていて気が付かなかったが、その奥は踏みならされ、土が露出しており、どうやら動物が歩いたような跡がついていたのだ。
「この先は確か…ベッド岩か…」
記憶の中から掘り起こすのに多少の時間がかかったが、この先には子供の頃に秘密基地として利用していた大きな石があったはずだ。
そこに何か野生の動物が住み着いているのかもしれない。もしかしたら熊かも…という考えに至ったところで背筋に冷たいものが走る
「行きたくないなぁ…」
未知に対する恐怖はどんな人でも持ち合わせるものであろう。ましては自分に危険が及ぶ可能性があるとなればなおさらだ。
それでも
「ちらっと見て、どんな生き物がいたのかだけでも伝えておかないと」
もし山から降りてくるようであれば僕の知人に被害が及ぶかもしれない。
ただし、今の自分の心が恐怖以外の感情を訴えていることも理解していた。
「どうしようもなく心が躍っていることも否定できないし」
「さーて、鬼が出るか、蛇が出るか」
―いっちょう、やったりますか―
そう呟いて気合を入れた僕はその細道に向けて足を進める。
この時の僕は、宣言通りに本当に鬼に遭うとは思いもしなかった。
先ほどまで歩いてきた道よりさらに狭い道を歩く。
子供の頃に歩いたかもしれないこの道は子供が1人通れるほどの幅しかならされていなかったため、僕が歩くときは改めて草を踏みならしながら歩かなければならず、非常に体力を使う作業であった。
汗を流しながらひたすら歩いていると、開けた場所に出た。そこには大きな石が斜めに反り立っており、その下には幼少期僕らが使っていた秘密基地があったはずだ。
「うーん、懐かしい」
そういいながら近づこうとしたその時、
「きひっ」
という幼い声が聞こえたと同時に後ろに強い力で引っ張られる。
思わず尻もちをつく僕の顔を覗き込んでいるのは少女のようであった。
「君は…誰…?」
そう呟く僕の首元をその細い腕から想像もできない力でひねり上げ、
「この山は漸諫教のものらしいが、お前は奴らの仲間か?」
うーん?と僕の瞳を覗き込んでくる。
「ま、まぁそうかな」
「そりゃあちょうどいい、なんであたしにいきなり襲いかかってきたのか、聞かせてもらおうか?」
「な、何のこと…?僕は詳しいことはよく知らないよ…」
「なんだ、そうなのか」
しどろもどろに答える僕に彼女は拍子抜けしたように質問を切り上げると
「じゃあ、死ねよ」
といつのまにかもう一方の手に握りしめていた金棒を僕の胸に向けて振り下ろした。
どうやら僕はここで死んでしまうらしい。
まぁ、それはそれでいいか。
最期の瞬間だからなのかゆっくりと見える手刀を見つめながらそんなことを考えていると
「…」
彼女は金棒を僕の眼前で止め、
「おいお前、その顔はなんだ」
と問いかけてきた。
こちらを睨む彼女の顔は憤怒の表情にゆがめられていた。どうしてだろう。僕を殺すのではなかったのだろうか。小さな疑問を頭の中に浮かべる僕。
「これまであたしが戦ってきた人間は最期には命乞いだったり、残される命に向けて最後の言葉を伝えたりしてきたもんだ。まずは生きようとあがく、それが無理な状況であればあきらめるってのはわかる。それがお前はなんだ?」
「そんな簡単に自分が生き残る可能性を捨て、死ぬ間際なのにただ薄く笑ってるだけ。理不尽な死に抵抗しようとしない。あたしはお前のそれがほんとーーーーーに気に入らない!」
「――お前、生きてんのか?――」
怒りの感情と共に矢継ぎ早に投げかけられる言葉、それに何か返そうとした僕だったが、しかし彼女に胸倉を掴まれているため息が詰まり言葉が出ない。彼女の華奢な手を腕で払うと簡単にほどけたので、息を整えた後にこちらをにらむ彼女に対峙する。
「今呼吸して、心臓を動かして。それで生きているからなんだってんだ。君だって僕だって、どうせ人は簡単に死ぬんだ。だったら生きながら死んでいたって同じことさ」自分の口から出た言葉は、普段の僕なら考えもしないようなことで、そんな自分自身に驚く。
「は!なんだそいつは!いつ死んでもいいなんて奴を殺したって何にも面白くない、見逃してやるからとっとと失せな」
彼女の言葉に妙に心が苛立ち、思わず言葉がついて出る。
「じゃあそんなつまらない俺に教えてくれよ!あんたは何のために生きてるんだ!?」
「人を殺してまで生きる理由ってなんだよ!?」
「そんなの決まってんだろ」
わめきたてる僕を彼女は先ほどの怒り顔から一転、楽しそうに微笑みながら右手の金棒を改めて僕に突きつけ、
「あたしは鬼だ。あたしが楽しく生きるために生きるのさ」
そういうと同時、僕の頭に衝撃が走り、意識を手放した。
※※
結果としてなぜか僕は殺されなかったらしい。
目を覚ますと、そこは僕の部屋で、ちょうど朋美さんが氷嚢を入れ替えようとしているところだった。
「…菱也さま!」
僕が意識を取り戻したことに気づいた慌ててほかの人を呼び、僕の体調に問題ないことを確認したのち、何があったかを教えてくれた。
朋美さんによると、僕は聖霊山の入り口に倒れており、通りかかった漸諫教の幹部の一人が発見したそうだ。
その人は外傷がないものの意識を失っている僕を見つけ、直ちに父に連絡するとともに、僕を屋敷の中に運び入れ、その知らせを聞いた朋美さんが駆けつけ、現在に至る―というわけだ。
「若様、お目覚めいかがでしょうか?」
朋美さんの後ろから男の声が聞こえると、朋美さんは慌てて立ち上がり、そちらに向かって深々とお辞儀した。
「兎狩様、菱也様をお助け下さり本当にありがとうございました…」
朋美さんが頭を下げている方向にはサングラスをかけた男が立っており、こちらをじっと見つめて返事を待っている。
「ええ、ちょっと頭が痛みますが、体に異常はないみたいです」
「それはよかった。しかしなぜあのような所に倒れていたのはでしょうか?熱中症であればもう少しお休みいただいた方が…」
「えーっと…記憶があいまいでよく覚えてなくて…」
先ほどの彼女とのやり取りが頭の中によぎったが、とっさに口をついて出たのはごまかしの言葉だった。
そんな僕を兎狩さんはじっと見つめたのち、
「…それでは私はこれで、漸魂会に戻らせていただきます」
というと部屋から出て行った。
「兎狩さんが助けてくれたのか」
呟く僕の言葉に首肯する朋美さん。
兎狩さんは子供の頃に幹部である彼の父に連れられて漸魂会であって以来顔見知りであった。僕より年上の彼は成人後、別の支部に移動したのか、ここ数年顔を見ていないと思ったが、幹部に昇進したらしい。
漸諫教の幹部は数人しかいない。あの若さで幹部になったのであればかなりやり手ということだろう。
「菱也様」
気が付くと朋美さんが身を乗り出し、あと数センチの距離で僕を見ていた。
「本当に心配しました。菱也様がもしこのまま目覚めなかったらどうしようと…」
その体は小刻みに震え、その両目には潤みを帯びていた。
「私はあなたの警護が仕事なのに」
「…」
「昨日も今日も私はあなたのお役に立てなかった」
「…」
「私はあなたの側にいる資格がないのかもしれません」
「…」
「だから、もし」
「朋美さん」
途中で我慢できずに割り込んでしまった僕を朋美さんが驚いたように見つめる。その頬を一筋の涙が伝った。
「昨日は僕に投げつけられたコップがぶつかる前にキャッチしてくれたよね?
「今日だって、自分のやりたいことをほっぽり出してずっと僕のことを看病してくれていたんだと思う。
「資格がないなんて、そんなこと言わないでよ。僕は朋美さんに助けられっぱなしなんだから。
「朋美さんがいなくなったら寂しいよ…」
「菱也、さま…」
そのまま肩を引き寄せ、抱きしめた。朋美さんは僕の肩に顔を押し当て、小さくしゃくりあげている。
「これからも心配かけてしまうかもしれないけど、朋美さんが嫌になるまではどうか一緒にいて欲しいな」
「はい…はい…菱也様…」
――お前、本当に生きているのか?――
僕のせいで傷ついている彼女を守りたい。そのために――
「死ぬことはできないな」
そう呟くと弾かれたように朋美さんが顔を上げる。
「菱也様、今何と…」
「何でもないよ、朋美さん、来週もどこか行こうか」
そういいながら外を見る。橙色と薄闇のせめぎあいの中、沈む夕日の煌めきが強く輝いて見えた。
※※
熱中症ということで夕食は自室でとることになった僕に香奈さんが雑炊を運んできてくれた。
ちなみに兎狩さんが僕を見つけてくれた時の手荷物から香奈さんがくれた包みが消えており、昼ご飯を食べそびれた僕の空腹が限界を迎えそうだったので、香奈さんの登場はまさに渡りに船であった。
「…約束」
「う」
開口一番にとげを突き刺してきたわざとらしく音をたてながら食器を置き、
「腕によりをかけて用意したんだけどねー。あーあー残念だなぁー」と続けた。
「あ、明日必ず食べさせていただきます…」
と恐縮仕切りの僕をみてさすがにやりすぎたと思ったのか、
「ま、実は今日は誰も食べないことになったから料理しなかったんですよー」
というと香奈さんはペロッと舌を出し、綺麗に片目をつぶった。
「え、父もですか?」
「漸魂会の後何人かの幹部と一緒にお屋敷を出ていかれてね。なんでも急いで確認しなければいけないことができたとかで、夕食もいらないって言われてしまいました」
「そうなんですか…」
父は香奈さんの料理をいたく気に入っており、漸魂会の日は必ず夕食を摂っていた。そんな父が今日は外に出て行ったということは何かよほどのことが起きたのか…
「ということだからさ」というと香奈さんは部屋の隅の朋美さんに向きなおり、「今日は菱也様と一緒に食べられるよ」と明るく告げた。
「き、今日はいりません…」
か細い声で答える朋美さんは壁の方に体育座りし、顔を膝に埋めている。唯一見える耳が真っ赤になっていることも含め、一目で何かあったことに気づいた香奈さんは口の端を吊り上げると僕を見つめる。
「で、あれはどういうことなんですかー?」
出かける約束をした直後、朋美さんは自分がどんな体制であるか気づくと、文字通り飛び上がった。そして何かを呟いたかと思うと、くるりと背を向け、壁の隅に蹲り、今に至る。
「ね、ね、何があったんですかー?」
香奈さんはひとまずターゲットを僕に絞ることにしたらしい。
「いや、なんでもないですよ。」
「またまたー、なんでもなくてあんなことにはならないでしょ?」
「いや、ほんとになんでもなくて、ただ、看病してくれたお礼を言っただけなんですよ…」
「ふーん、へー、そー」
とぼけようとするが香奈さんは全く信じてくれていない。
結局その後も香奈さんの追及を防ぐのが精いっぱいで、香奈さんお手製の雑炊もほとんど味がしなかった。
「じゃーあとは朋美ちゃんから聞こうっと」
そういって朋美さんの肩に手を入れ、部屋の外へ引きずっていく香奈さんを見送ると、先ほどまでの喧騒が嘘のように静寂が耳を覆う。
安静を命じられているため、部屋からでることを禁じられた僕は窓へと歩みを進める。
そこでは昨日と変わらず、大きな山がその姿を横たえていた。
――理不尽な死に抵抗しようとしない、あたしはお前のそれがほんとーーーーーに気に入らない!――
――お前、生きてんのか?――
森でかけられた言葉を思い出す。
「…分かってるよそんなの」
自分が目を背けてきた心の中を目の前で暴かれ、それをそのまま突きつけられた感覚。
本能のままに生きることができたらどんなに楽か。
「もう少し馬鹿で生まれてきてくれればなぁ」
あるいは向けられた負の感情に気付かなかったかもしれない。
あるいは負の感情に気づきつつ、崇められる快感で上書きできたかもしれない。
あるいは、こんな僕を本気で心配している人の気持ちに気づかなかったかもしれない。
正直のところ、あの鬼のいう通り僕は自分がどうなろうと気にならない、こんな生まれだし、ろくな目に遭わないことは想像できる。でも、僕の身が傷つくと涙を流す人の存在に気づいてしまった。
「だから、僕はもう少し生きようと思う」
自分がどうとかでなく、彼女が僕から離れるまでは死ぬわけにはいかない。素直にそう思った。
「今度会った時は生きあがいてやるさ」
そういうと窓を閉め、部屋の中に戻った。
※※
香奈さんの猛攻を何とかかわし(抱き合ったことはほぼ伝わってしまっていたようだが)、自分の部屋に戻った朋美はベッドに頭から飛び込み、バタ足を繰り出す。
火照った顔はなかなか冷めず、ようやく顔を上げたのはかなりの時間が経過してからだった。
――朋美さんがいなくなったら寂しいよ――
「ありがとうございます。菱也様」
これだけであと何年も戦えそうだ。あの菱也からそんな言葉が出るとは思いもせず、しかもその後抱きしめられて涙があふれてしまった。
菱也のことを思うと今でも心の底から温もりが満ちてくる。そんな感情に思わず笑みが浮かぶが、脳裏にある事実がよぎる。
「山の中にいる菱也様を見れなかった…」
彼女にしてはありえないことであった。菱也の看病をしているときに確認したところ、彼をみれたので、今は問題なく使えているようだ。
「あの山に原因があるのか…あるいは他の…?」
原因がわからない以上、菱也はなるべく聖霊山に近づかせないようにしよう。
脳内でそう結論付けた彼女は菱也からもらったブレスレットを枕元に備え、明日のトレーニングの準備を始めた。
※※
同時刻、聖霊山山中
「あいつの握り飯、うまかったなー」
大きく反りだした巨大な岩を枕にし、寝そべる少女の姿があった。
「ありゃー多分依代の
うらやましい能力だぜ、と呟く。
あの少年を気絶させた後、ちゃっかり荷物から拝借し、いただいたが、今まで口にしたことのないような味であった。料理人を何人も集めても再現できない美味しさは思い出すだけでも自然と口角が垂れてくる。
「何かこっちを見ようとする視線を何度も感じたし、意外とあいつ偉いやつなのかも」
あの少年、どうやら複数の憑き物持ちが周りにいるようだ。
特にこちらを見ようとする視線は何度も何度も感じ、いちいち阻止するのが非常にうっとうしかった。
普段の彼女の力をもってすれば阻止するのは容易だったが彼女は現在弱っていたため、何度も何度もこちらを覗こうとされたことで面倒になり、少年を殺すのをやめたのであった。
気まぐれに人を生かし、気まぐれに人を殺す、鬼が鬼たるゆえんである。
「腹は膨れたけど血が足りねーなぁ」
握り飯のおかげで腹は膨れたが、力の源は回復していないため、その内面では絶えず渇望のうめきに苛まれており、残り僅かで命の灯火が尽きようとしていた。
「あー、早く誰か来ねぇかなぁ。あいつ以外で」
彼女はそう呟き、瞳を閉じた。
その肩には菱也が見たものとよく似た生き物が腰かけており、その目は菱也達の屋敷がある方を見つめていた。
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