善なる罪

和泉茉樹

第1話 ベーグルと旧友

     ◆


 川端ユウは帰宅すると、土間にニューバランスのスニーカーが丁寧に揃えて並んでいるのを見た。川端も休日にはスニーカーを履くが、普段は下駄箱に入れている。川端にはすぐにその靴が誰の靴か見当がついた。

 履き慣れない革靴を脱いでスリッパを引っ掛けて先へ進む。リビングに入るとかすかにコーヒーの匂いがして、視線がローテーブルの上のマグカップを経由してソファに向かい、一人の男が熟睡しているのを発見する。

「鶴見、何をしている」

 声をかけると鶴見キサギが小さく呻いて目を開いた。川端と視線が合う。鶴見の口元に人なつっこそうな笑みが浮かんだ。

「ああ、川端さん、お帰りなさい」

 鶴見の声は柔らかい。

「合鍵を渡したのは俺だが、勝手すぎないかな」

「ちょっとコーヒーをもらっただけです。お土産もありますよ」

 川端からは陰になって見えなかったソファの向こうから紙袋が出てくる。

「ベーグルです。一緒に食べましょうよ。川端さんはこれから何か出前を頼むんでしょう? その手間が省けますよ」

 悪びれない鶴見に、川端は小さく息を吐いて「俺の分のコーヒーも用意しておいてくれ」と言ってリビングから寝室にしている部屋に入った。

 背広から部屋着に着替えてリビングへ戻ると、鶴見が川端のマグカップを手にキッチンの方から戻ってくるところだった。並んでソファに座り、川端は受け取ったマグカップのコーヒーが濃い目であることに頷く。鶴見はニコニコしながら、紙袋の中のベーグルをローテーブルに広げ始めた。

 カラフルなベーグルでどれを手に取るか、マグカップを片手に川端が考えているところに、鶴見が声を向けてくる。

「お疲れの様子ですね、川端さん」

「気が重い仕事があってね」

 答えながら川端は緑色のベーグルを手に取る。抹茶味のようで、黒豆も練りこまれている。面倒なので川端はそのままかじりついた。味はなかなか良い。

 鶴見はローテーブルの上で手をうろうろさせながら、言葉は止めない。

「また人工知能の問題ですか。お疲れさまです。人工知能の暴走も頻繁ですね」

「俺も鶴見みたいな生活がしたいよ」

 ブルーベリーが練りこまれているベーグルを手に取った鶴見がくつくつと笑う。

「フリーターで、住んでいる部屋は家賃五万円の六畳間だけのワンルームなんて、無茶ってもんです」

「忙しすぎてかなわん。こんな仕事だと分かっていれば、別の仕事を探したよ」

「でも稼ぎは良い。でしょ?」

 釣り合わん、と応じながら、川端は熱いコーヒーの濃すぎる苦さに思わず唸りそうになる。好きな味だが、美味かどうかは判断に迷うことがたまにある。

 川端と鶴見の出会いはもう十年近く前になる。川端は大学生で、鶴見は高校生だった。コンビニのバイトで出会ったのである。当時の川端は、まさかその時の高校生と十年も付き合いが続くとは想像もしていなかった。

 川端は大学が取得を促していた人工知能に関するいくつかの国家試験に合格したところから、今の職に就いた。

 神田電脳調査、というのが勤め先で、この会社は人工知能に関する広汎な調査が主要な仕事である。

 ありとあらゆる場面で運用されている人工知能は、運用している人間、開発者さえも意図しない行動を取ることがある。その行動に関する事実確認、背景の調査が川端の仕事だった。

 俗に「電脳査察官」などと言われるが、大抵の場合は公的機関に雇われる民間の調査員に過ぎない。

 川端はベーグルを一つ食べ終わり、次を選んで手にしたところで鶴見が声を向けてくる。

「で、どんな事件です?」

 あのな、と川端は鶴見を睨みつけるが、鶴見は平然としている。

「ちょっとくらい教えてくださいよ。ほら、ベーグル、もう一つくらい食べてもいいですよ。僕の取り分も欲しいですか」

 鶴見相手ではいつものことだ。

「俺はあとで適当なインスタント麺でも食べるよ」

「栄養が偏りますよ」

「野菜ジュースもある。男の一人暮らしなんだ、誰にも文句は言わせん」

 それなら、と鶴見が両手で一個ずつベーグルを確保し始める。ローテーブルの上にはまだベーグルがあるので、とっさに川端もマグカップを置いて空けた手で一つを確保した。

「結局、ベーグルが食べたいんじゃないですか」

 鶴見の言葉に、川端は無言でさっさと二つ目のベーグルを咀嚼し、空いた手でさらにもう一つを確保して見せた。

「美味しいでしょ? 代わりに話を聞かせてくださいよ」

 川端は頑として譲らないつもりだったが、今までになかったことではないし、ベーグルは確かに美味かった。口の中のものを飲み下してから、「多言は無用だぞ」と念を押した。

 ニコニコと笑う鶴見に、川端は観念して話し始めた。

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