新短編:ストランダーズ・ガール

-N-

新短編:ストランダーズ・ガール


 根の張って崩れかけたメトロを抜けると、緑夏の湿気が滞留していた。ブーツで踏みこむ廃線路が枯れた夜から草木の脅威へと切り替わっていく。少し先で列車が横たわっていた。ID:42396は配送端末を胸ポケットから取り出して、これからの行き先が間違いないのを確かめた。

 息を吸い込むと、閉鎖空間にはない自由が肺を満たした。

 端末をしまい、ゆっくり草場を踏んでいく彼女は、旧世界の女子高生の制服姿に、ブラックライフルをひっさげた大仰なバックパックを背負い込んでいた。

 そんな彼女を今にも飲み込むかのような自然が向こうまで広がっていた。人類文明の象徴だったビル街が巨木の枝幹に節々を食い破られており、そこにホモ・サピエンスの息吹はないように思えた。

 しばらくして、銃声が響いた。断続して。遠くだ。断罪の弾痕教会とオブジェクトの抗争だった。世界が滅んでもなお、人は争いを最後まで手放さなかった生き物であった。今こうして誰かの荷物を掴み運ぶ使命も選べたのに。

「おうい、おうい」

 線路の行く先遠くに、廃列車と木材で作られた封鎖線と歩哨所があって、やせこけた男が封鎖線の上で手を振っている。彼女のようなライフルを肩に吊り下げていた。

 彼女は同じように応じた。重量でよろめきそうになる身体を、足でして踏ん張ってこらえた。

「運び屋さん、ノースサウザンドへようこそ、あと少しだ。ようし、バリケードを開けてやれ」

 廃列車の車輪が動き、横開きとなって、駅コミュニティへの道が開けた。ただなにぶん、急成長する草木の根が人工物にまで食い込むおかげで、車輪が中々に動かない。完全に開くには彼女がもう手前まで来てからになった。

「一日一回は動かさないとやられてしまうな。さて。こんなところまでわざわざようこそ。本当に長旅だったろう」

「いえ、アッパーフィールズからの配達だから、たった一日歩くだけよ。オブジェクトもいない、快適な旅だったわ」

「それはよろしい。この辺りまで教会の連中が騒ぎ立てていたから、我々も心配だったんだ。何もなくてよかった」

「ここのところ随分と抗争が続いているわね。ニューシンホテルズではそのおかげで足止めを食らったりした」

「運び屋さん、そんなに遠くから来ているのか」

「さて、荷物は無事よ。確認して頂戴」

 彼女は話を切り上げるべく、背嚢をそれは丁寧に、地面へと下ろした。

 中身を一目見ようと、続々と集まってくる歩哨たち。

「アッパーフィールズ産、遺児のタール漬。ラックプレーン産、腐臭姫の愛液瓶。それとオウタムリーフ産、電子脳キノコ」

 彼女は吐き気を催すような代物を、一つ、二つと着々地面に置いていく。衆目は色めきだった。緑の世界に放っても木霊してきそうな、静かだけれども確かな熱気だった。そのどれもが、ノースサウザンドでは手に入らない、必需品だった。

「ああ助かるよ運び屋さん、これで数ヶ月は持ちこたえられる」

「数ヶ月」と、ID:42396は彼、彼女らを囲う自然を見上げた。

 新世界における緑の成長は脅威と言っていいくらいのものだ。ビルは根から朽ち、家々は風化し、今こうして上に立つ鉄筋コンクリートの交通網も今に飲み込まれてしまうのは目に見えていた。数ヶ月は持つといったが、この駅コミュニティ自体が持って数ヶ月だろう。

 こうして滅び行く定めを延命する、その手助けをするのは、はたして誰が与えた罪と罰なのだろうか。彼女には分からなかった。ただ、やがて草木に埋もれる鉄道駅で、希望を抱いて暮らす人々を見捨てる訳にもいかなかった。

 それは偽善だとか正義心によるものではなかった。彼女らも生きるのに必死な生き物であった。駅から駅へモノを運べば人間から糧を得られるのであって、ID:42396の使命や任務といった聞こえの良いものは実際の所、旧世界での人間が金を得る大義名分らしいものであった。生きるために働く。アポカリプス後も変わらぬ定理であった。生理的就労と使命的就労を切り離して考えるものもいるが、彼女にとってはただの、食事を美味しくするスパイスに他ならなかった。

 最後に食事をしたのはいつだったか。アッパーフィールズで配達の仕事を終え、宿屋で男を一人あてがってもらったのがそうだ。彼女らは人の血肉や汗、精液、排泄物らを糧とするオブジェクトの一つであり、人間と共存する数少ない異形であった。退屈な食事であった。齢にして五十だろうか。若気の全くない枯れたものをいろいろに動かして、結局体液はほとんどでなかった。

 アッパーフィールズは大きな駅コミュニティであるので、お抱えのストランダーズ・ガールもいる。若い男はだから、そちらへ回されるのだろう。駅と駅を繋ぐ彼女らに離れられては駅の死活問題だ。何処の駅でも、そのようなものだった。

 もう久しく、まともな食事にありつけていないのではないか。舌や膣に記憶を引き寄せさせても、閉経した女のようにそれはもう曖昧な味の記憶でしかなくて、自身の根底にある敏感な欲求は明らかに不満を漏らしていた。

 この駅に若い男はいるのだろうか。

 いや、女でも良いのだが、女というのはすこぶる彼女らにとっては都合が悪く、若い女といえば月経が、それはもう舌鼓を打つ大変に珍味的で美味な食事であるが、ではこの世界の女はというと大抵が貧血や栄養失調をわずらっており、旧世界ならばともかく、今やその味は枯れていて雑味があった。それに月経の性質上毎回ありつけるとは限らないから、味を覚えてしまうと大変なのだった。

 対して男はいい。ストランダーズ・ガールはその全てが十代の女子高生の身体であるので、食事の提供に不満を持たれることなどほとんどない。閨に入ればこの世界の全てが嘘に思えるほど優しくしてくれるものもいて、その時だけは配達の全てを忘れられた。それに、当たり外れはあるけれども、男は安定的に食事を提供できる能力があって、こちらは快楽を無償で与えるのだから、お互いに都合がよいのだった。

 そう彼女が遠くに気をやっていた時だった。

「検品は済んだ。おぅい、イヌイ!」

 やせこけた歩哨が声を張り上げた。

 彼女は腹がなりそうな思考をくっとしめ、口の中の唾液を飲み込んだ。

 すぐさま、男が一人、構内から走ってきた。見るからに若い男だった。

 イヌイは茶色の少しよれたる作業着に、工具をごちゃごちゃくくりつけた格好で、いかにもな工房人だったが、しかしひ弱くもない、仕事をこなす男らしいこびりつく汗臭さもあった。

「はじめまして、運び屋さん」

「紹介するよ。こちらはイヌイ。ノースサウザンドが誇る若き修理士だ」

「イヌイです。昔はパソコンを修理する仕事にいたんです。それを買われてここでエンジニアとして働いています」

 二十を過ぎてはいるだろうが、つい最近に声変わりを済ませたばかりのような、しわがれのない声であった。

 イヌイは彼女を下から上まで一通り見て、そして手袋をし、彼女が持ってきた荷物のうち、人間の脳を電子基板に置き換えたかのような、そんな電子脳キノコだけをさらった。

「無事に届いてくれてよかった」

 朗らかな笑みを浮かべた。「持って行きます」とイヌイは歩哨たちに告げて、駅構内へと戻っていった。それを姿が見えなくなってまでも、彼女は追い続けた。ID:42396は釣り針に仕掛けられた釣り餌に興味を示す魚のような、食欲の高ぶりを感じた。あの男を逃したら、もう今度こそ一生の食事に後悔がつきまとうのだろうという、確信めいた気を起こしていた。間違いない。イヌイは、上質な食事を提供できる逸材だ。若いというのもそうだが、まるで女の気配がなかった。童貞なのだろうか。童貞を食するというのは大変に珍しく、栄誉に感じられるものだった。量、質、そして純度。「おいしさ」の等級表における最上位に位置し、体液を糧とするストランダーズ・ガールにとって、まさに至高の存在の一つだ。彼女はそういった経験を全くしてこなかったから、余計に食欲の想像が色めき立った。

 反面、あの男はセックスに興味を示すのだろうかと、一抹の間だけの不安が襲った。男は若々しかったが、しかし女の気配が匂いというものさえも全くなく、ではそういう男は大抵に女に興味がなかったり、仕事が恋人であるような人間であった。彼もまたそういうケがあるように感じた。

「いい男だろう」

「ええ。若くて仕事熱心なのでしょう。食べてしまいたいくらい」

「そうしてくれると助かるんだが」意図を理解する歩哨が付け加えた。「イヌイは少し変わったところがあってな」

「変わったところ」

「この世界に、操を立てているんだ。変人だよ」

 ID:42396は歩哨たちに仮の別れを告げて、駅のプラットフォームに上がった。イヌイの工房を訪れた。工房といっても木でできた仕切りの中を指すのであって、作りは簡素なものだったが、それは問題ではないらしかった。工房には明かりがついており、各種コンピューターやオブジェクトが所狭しと並んでいた。中には汗蒸した熱気がこもっていた。緑と科学を無理やりに合わせたような、しかしそれでいて、視界には当然見えないのだけれど幾何学的に最適だと分かる臭いがただよっていた。

 イヌイは工房の入り口に背を向けるようにして、机に向かっていた。頬をかき、うなり、手に持った筆記具を書き散らし、そうして机の上のものを一心に見下していた。背筋が前のめりに曲がっており、なにか真剣に考えているのが見て取れた。工房に入ったことも知られていないようだった。

 そうすると彼女の食欲ははやくアプローチしろと急かすのだが、理性が涼しく制した。次の配達まで急ぐ旅でもない。作業の邪魔をしては悪い。男というのは本腰を入れて取り組むことに茶々をさされると、すこぶる機嫌を悪くする。そのような無礼をすれば彼を食す機会も失せるのだと、脳裏に戒言がよぎったからだった。

 彼女は中にあった木製の椅子を引き寄せて、壺を下ろすように座った。それと同時に彼は電子工具を引き抜いて、脳の解体をはじめた。イヌイの顔は、ただもうひたすらに電子脳キノコというオブジェクトに対して向かれていて、痺れるような目付きをしていた。彼の目には鍛冶場の業火がともって、彼とそれとの間以外の世界は全てが無為であるかのように個別し、ただ二つのみが照らされていた。足をゆすり、椅子を前後ろに動かして、手を秩序なく動かしているその姿は、職人が自らを像にするかのような芸術性を覚えた。人が内なる所に神を見いだすように、彼もまた無心にその動作を繰り返していた。イヌイは仕事人なのだ。この世界の朽ちぬ緑の根がごく自然に繁殖するように、彼の腕はただ機械とオブジェクトにのみ向けられる。情報が足りず言い表せぬけれど、世界に操を立てている理由が垣間見えた気がした。

 そんな彼女など知りもせず、イヌイはひたすらに、夏の湿気にやられた汗を腕裾でぬぐいながら、電子脳キノコから取りだしたボードを回路種別ごとに仕分けていた。彼はただ自分の仕事に心を奪われていて、ID:42396もひたすら静かに座していたものだから、ふと振り向く機会もなく、工房の二人はただ、淡とした色のクラゲが空に浮かぶような時間を過ごした。その間、彼女は食欲など上の空になって、ただ彼のことばかりを眺めていた。そうしていつか長旅の疲れが襲ったために、彼女は夢の中へとまどろんでいった。


 さて。イヌイの仕事は橙木陰に傾く時間に終わり、工房の中で物音一つ立てずに寝ている運び屋の女を見かけることとなった。イヌイは当然の驚きの次に、申し訳なさを感じた。自分を待っていただろうに、気を使って何も言わずにいてくれたのだ。胸に熱いものが込み上がった。だから、それはもう丁寧な声かけで、

「運び屋さん、運び屋さん」と、イヌイは彼女の肩を少しだけさすりながら、彼女を夢の世界から引き上げた。ID:42396は温かな人肌並の感触が真っ暗闇の船の碇を上げる、それに近しいものを覚えながら、目を開いた。

「イヌイです、運び屋さん」

「ここは」

「私の工房です」

 彼女はすこしぼうっとしていたが、一つ二つ目を動かして、理解した。

「寝てしまったようね」

「ええ、待たせてしまい申し訳ありません」

「今は?」

「夕方、そしてこれから夜という所です。私も今先ほど自分の仕事を終えました」

 彼女は彼の机を見やった。そこにはいくつかのコンピューターが置いてあって、代わりに電子脳キノコの基板がなくなっていた。それを見るなり彼女は、空腹の胃を満たす、煮えたぎった胃酸による食欲がぼこぼこと生じるのを感じた。純真な欲望であった。襲いかかりそうになった。それをくっとこらえて、改めてイヌイに向き直った。食欲は踊る。食べるには絶好の、いい男であった。

「用があっていらしたんですよね」

 明かりが灯されていてもなお強い夕景色の影が、イヌイの顔に濃淡を生み出していた。ID:42396は東洋人らしい平べったい顔の頬を想像の指先でなでてやって、次に自分の本当の舌を使って、浅しく吟味した。塩味があった。彼の味もはたしてそうなのだろうか。彼女は興味を抱かずにはいられなかった。焦燥さえ感じた。どちらが童貞なのか分からなくなってくる位の、強烈な異性への飢えであった。

「歩哨から聞いたわ。あなたは世界に操を立てているみたいね」

 数秒おいて「ええ」と答えが返ってきた。

「きっと今夜の食事の件でだったのでしょう。申し訳ないですが、運び屋さんの期待には応じられません」

 それを聞いて、彼女は強烈な性的ストレッサーに晒された。それはさながらカウパー腺液をだらだらに流していた最中、生殖器を切断されるような苦痛であり、人の身に生まれていたならば狂ってしまうほどの辛苦であった。そしてしかし諦めきれぬ興味心が、更なる質問を促した。

「それは残念。でも珍しいわ。世界にだなんて」

「この世界は美しい」ため息を漏らした。

 彼の瞳の底には、自然に対する明らかなる畏怖と敬意が映っていた。引きずり込まれる瞳には望遠に雄大な脅威があるような気がした。朝日に照らされた雨露が地へ滴り落ち、集積して湧き出し川となって、彼が剥いだアスファルトの上を流れる。やまぬ小鳥のさえずり。虫の語らい。闊歩するオブジェクト。自然に逆らう人間という存在はもはや要らないようだった。人間はアポカリプスの中で全てが緩やかに死に絶えていく。そして地球もまた、繁栄の緑に還り咲くのだろう。

「私はこれまでの人生を、社会の数あわせの一つとして生きてきました。絶望の内に起きて消費材のように使われ死ぬように眠る日々です。そんな日々をこの自然が壊してくださった。人は自然を恨んでいるけれど、私はそう思わない」

 顔に落ちる夕影をもってしてなお、表情は曇りなく晴れていた。

「私はこの自然を愛しています」

 それを聞くと、ID:42396は欲望の溜飲が少しだけ下がったように感じた。それは極めてどろりとしていて、白くはないものの、生理的汚染を感じる程に濁りきっていて、まるで自分の心の中に煮えたぎる若者の魂があったのではないかと感じる程だった。

 同時に、頬をなでた彼の味が空に溶けていった。エレクトリカルな彩色が白黒になり、もう彼女にとっての意味を成さなくなっていた。しかし一方で、それが蘇ってくる自分の冷静さのようにも感じた。

 思えば、満足のいかぬ食事に腹を立てながら、あるいは腹をみっともなく空かせながら、アッパーフィールズからノースサウザンドまで一日を歩いたのだった。食欲に突き動かされるのは無理もないことであった。

「だから、私にはあなたにしてあげられることはない」

「酷だわ、イヌイ」

 そう、玄関口から白髪の少女が入ってきた。少女はよれたローブみたいな白服を着ている。肌も病的に白く、人間ではないように思われた。いや、実際には違うのだろうとID:42396は感じ取った。彼女はストランダーズ・ガールと同じ、オブジェクトの一人だった。

 イヌイは彼女を「コードトーカー」と呼んだ。

「はじめまして運び屋さん。お腹を空かせているのに愛想がなくて、このイヌイ」

「いいえ。できることならと思っただけよ」

「ねえイヌイ。血の一滴も与えられないのなら、せめてねぎらいの一つや二つ。なにせはるばる世界の向こうから来たのよ」

「それは失礼。だけど、私の血も汗も、最後の一滴まで自然へ流されるべきだよ」

「他の人にもこんな調子よ」

 カルト宗教家に呆れるような、コードトーカーの声だった。

「けれど安心して運び屋さん。食事は駅の人に頼んでおきますから」

 願ってもないことであった。


 やがてノースサウザンドに一番星二番星と瞬きはじめた。ここもかつては都心だったろうに、やがて夜空はきらめくして星々が数えきれぬほど増えていった。西に妙光が溶け込んで、そうして完全な夜へと変わった。ノースサウザンドは全面屋根付の駅であって、上を見ても星は見えないし、横を見てもそれは黒々しい自然世界が広がっているだけで、外へと出ない限りは星など見えはしない所だったが、星々の代わりに人々は中央プラットフォーム下の線路でたき火をはじめたのだった。

 それは、今日の疲れを一身に引き受けて燃えさかる、護摩のようであった。

 人々は炎を囲って、野菜と野草、ビーンズの炒めを食べながら、話に花を咲かせていた。酒はなかった。ノースサウザンドの酒はとうに尽きてしまったのだという。それでも人々は陽気に蒸留水の杯を交わして、赤い顔をして笑い合った。

 ID:42396は駅の健康な人間から採った血を瓶に詰めてもらい、それを少し離れた暗所で飲んでいた。コードトーカーの計らいだった。旨い。それにこのあと、若い男を一人あてがってもらう予定なのだから、まさに至れり尽くせりであった。

「運び屋さん、今日はありがとうございました」

 そこへ、イヌイがやってきた。作業着ではなく、気軽なTシャツとジーンズであった。

「いい駅でしょう、自然に囲まれた中で人が輝ける場所、それがノースサウザンドなのです」

「そうね。あなたが食事を提供してくれたならもっと最高だったわ」

「ははは」

 両者は言葉を濁した。それは互いの距離を尊重するのに必要な措置であった。何事もなく交わされるコミュニケーションは時として、滑り落ちるナイフのように互いを傷付ける。特にID:42396の今にとってはまさにそうであった。血で腹を満たし、飢餓の感情が消え去った今、もはやこのイヌイという存在は、食事としては魅力的な逸材であろうけれども、それ以外ではさしたる興味も引かれなくなっていた。もしこのあとの男がイヌイであるのなら、話は別なのだが。

 静寂は程なくして破られた。イヌイだった。

「その事です。実はお願いがあってきました」

イヌイの表情はやがて、仏頂面よりも静かで、真摯に訴えるものとなった。ID:42396はこの表情をよく知っていた。だからこそ、余計なことを言うつもりはなかった。

「配達」

「そうです、配達です」

 やはり。ID:42396は黒々しい空を見上げた。「聞きましょう」

「とある人をニューシンホテルズまで届けてほしい」

「対価が必要になるわ」

 率直に述べた。ストランダーズ・ガールの配達は前払いが多かった。駅直属の子や信用関係にあるもの同士の取引、ストランダーズ・ガールの配送端末ネットワーク経由での配達では後払いもあったが、少なくともID:42396に向けられたこの依頼は、前払いでなければならなかった。もうニューシンホテルズまで行ったなら、ノースサウザンドへはもう戻ってこないだろうという確信めいた予感を覚えたからだった。

 それにやはり、人を運ぶのは至難の配達であった。

 この自然とオブジェクトにあふれる世界において、配達ルートは決していつも固定されたものではないのだ。それも人となると格段に難易度が上がる。食糧、銃器、サバイバル用品。それらを持ち合わせながら、対象を護衛し、導かなければならない。

「人は命の保証ができない。それは分かっているかしら?」

「ですから、あなたへのお願いなのです。運び屋、ストランダーズ・ガール」

 不鮮明な信頼、しかし確かな覚悟が見え透いた言葉だった。

 しかしそれが拒む理由にもならない。彼女は二、三拍の間を置いて、承諾した。

「良いでしょう。誰を運べば良いのかしら」

「コードトーカー」

「あの少女を?」

「ニューシンホテルズには財団の権威が集結していると聞きます。コードトーカーは以前よりニューシンホテルズに行って自分の力を、オブジェクトに耳をかたむける力を使って世界をより良くしたいと語っていました。

 これまで彼女はこのコミュニティを何度も救ってきました。影オオカミの群れを察知して明かりを絶やさなければ皆が死んだ夜もあった。彼女の知恵がこのコミュニティを生きながらえさせているのは目に見えて分かっています。しかし誰が彼女の使命を止められるでしょうか。私が自然を愛しているように、彼女にだってその使命を行使する権限があるはずです」

「それを駅の人間は知っているのかしら。自らが死の危険と隣り合わせになると分かっていて」

「ええ。そのための『愛液』です」

 その愛液が配達物として持ってきた『腐臭姫の愛液瓶』だと理解するに、数秒を要した。だがしかし、なるほど。腐臭姫の愛液はオブジェクトを寄せ付けない効果があった。人間臭をかき消すほどの、人間にとっては無臭だが、オブジェクトにとっては身も毛もよだつ激臭をもたらす代物であった。

「それに私たちはいずれアッパーフィールズに吸収されるでしょう。ここは決して大きくはないコミュニティです。より大きな集合体にまとまった方が良い。そう、話し合いが進められています」

 持って数ヶ月の駅として、着々と来たる日に備えていると、イヌイは言った。

「それは分かったわ、イヌイ。それで? その対価は」

「私の操です」よどみない言葉であった。

「本気なの?」ID:42396は返した。

「本当に、世界のために操を立てようと思っていました。血も汗も、この世界に流されるべきというのは変わりありません。しかし――やがて世界は人間と自然との境界さえも溶かしていきます。私もあなたも例外なく、です」

「まさに、溶けるでしょうね、いずれ」

「いずれ私たちも、火を囲う彼、彼女も、皆自然に溶けるのです。だとしたら……こうやっての語らいも、人間の営みも、結局は自然なことなのだと。コードトーカーに諭されました」

「それでもあなたが世界と自然を愛しているのは分かったわ」

 そこからしばらくの時をおいて、

「私たちノースサウザンドの人間は、コードトーカーの事を大事に思っています。ですから、この思いも共にあなたに託したいのです、ストランダーズ・ガール」

「引き受けましょう」

 ID:42396は契約を取り付けた。

「ただ一つだけ」イヌイは言った。「そういうことを、したことがないんだ。だからどうか」

「大丈夫」ID:42396も返した。「任せて。あなたの覚悟を、身体に刻みつけていくわ。世界を渡り歩くために」


 性行為は終始、ID:42396によってリードされる形となった。

 長い、長い絶頂を終えた二人はベッドへ横になった。イヌイにとっては初めての魅惑、そしてID:42396にとっては全身が甘く、甘く痺れるほどの、満たされる食事であった。


 やがて空をぐるりとした天体たちの営みも、朝日にかき消されていった。

 朝露が、空気に乗って、世界を湿らせていく。ID:42396は誰よりも早く起きて、出立の準備をはじめた。

 まずはじめに――「コードトーカー」と声をかけた。

「何かしら」コードトーカーはもう既に起床していた。

「あなたをニューシンホテルズまで護送することが決まった。必要なものを揃えて頂戴」

 コードトーカーは「もう用意してある」と言った。「だってイヌイと寝たということはそういうことでしょう?」

「そうね」ID:42396は「出発の準備を急いで済ませるわ。別れの挨拶は今のうちに」

 コードトーカーはノースサウザンドの皆に別れの挨拶をして、昨日の歩哨所まで、荷物を背負ってやってきた。

「運び屋さん、どうか、コードトーカーをよろしく頼みます」

「分かった」

 もう、ノースサウザンドには戻らないだろうという確信めいたものを感じていた。イヌイにもだ。ノースサウザンドの人々も、イヌイにも、もっと語ってもいいことはあっただろう。必要であればもう一日といられて、彼らのことを語ることはできたかもしれない。だが、このノースサウザンドにもイヌイにも、もう語るべき事はないように思えた。自然に飲み込まれる駅と、自然を愛する男。それだけだった。

「グッドラック、運び屋さん、コードトーカー」

 歩哨がバリケードを開いた。線路が続いている。

 そうして、二人の旅が始まった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新短編:ストランダーズ・ガール -N- @-N-

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説