エピローグ

「――……ん、うん、ぅ……?」


 何を見ていたのかももう思い出せないような、夢の終わり。闇の中から現実に連れ戻されるような目覚めの感覚に、ついリムはそんな声を上げた。

 頭は重く、どこかまだ寝足りない。気怠さの中でゆっくりと目を開ける。と、見えたのは見知った天井だった。カーテンの隙間から朝日が差し込む、自分の部屋――自分の部屋?


(……なんで?)


 何か不思議なものを感じた気がしたが、よくわからない。こてんと首を傾げて周囲を探った。見たかったのは枕元に置いてある目覚まし時計だ。旅を始めたばかりの頃、ムジカが買ってくれた時計。

 鳴らなかったということは、いつもより早めに起きてしまったらしい――……?


「……ぅえ?」


 思わず時計を二度見して。リムはひゅっと息を呑んだ。

 真水をぶっかけられたような衝撃に、意識が急速に冴えわたる。眠気はもうどこかへすっ飛んでいた。

 いつもより起きる時間が二時間も遅い――慌てて時計を確かめれば、目覚ましの機能がオフになっていた。


(え。嘘。なんで!? こんなとこ、いつもはオフになんて――)


 と、そこでふと気づいた。

 何にかといえば、自分の服装にだ。いつもの寝間着ではなく、何故か制服。当たり前のことだが、制服で寝るなんて普通しない。これにもリムは同じことを思った――なんで?

 そして最後に、ようやくこの疑問にたどり着いた。


(なんで、私はここにいるの?)


 思い出す。最後の記憶はエアフロントだ。ノブリスに抱かれて雲海を生身で突っ切ったせいで、体が凍えていた。震えていたのはそれだけが理由ではないが。

 怯えながら、泣きそうになりながら。それでも彼の、無事の帰りを待ち続けて――


(――――っ)


 そこから先は思い出したいような、思い出したくないような。微妙な感じだ。そのどちらにも羞恥が付きまとう。

 彼の熱、彼の言葉。みっともない自分、泣きじゃくる自分――それらを努めて考えないようにしながら、リムはひとまず、部屋の外に出た。

 二階には、誰もいない。ムジカの部屋もそっと覗いたが、やはりいない。


「……?」


 呼び声には誰も応えない。静寂に包まれた、無人の家。何の音もない。

 不意に思い出したのは、イヤな記憶だった。どこにも自分の居場所がなかった、あの頃の記憶。

 足元が不意に崩れてしまいそうな――いや、そもそも足元なんてあったのか。自分が立っているのか落ちているのか、それさえもわからなくなるような、あの頃の――……

 と。


「――連中がどうする気かは知らんがね。連中がどうこうしようが、それで簡単に解決するもんでもないだろうし」

「…………解決、か」

「……?」


 不意に遠くから聞こえた話し声に、リムはそちらへと歩き出した。

 一階だ。玄関のほうから。そうする必要もないのだが、足を忍ばせてそちらに向かう。

 そうしてそっと物陰から玄関を覗けば、確かにそこにムジカの背中はあった。来客対応中らしい。

 隅から覗いて見えたのは、あまり馴染みのない男性の顔だったが。

 重さを感じるほどに、堅苦しい声で――だが不思議と晴れやかに、その男は言った。


「確かに、難しいのだろうな。もはや伝統や、文化と呼んで差支えのないほどに根付いてしまった……だが、気づいた者が始めなければな。でなければ、何も変わらない」

「……あんたが変える気か? 変えられると思うか?」

「さてな。だが……挑まなければなるまい。思うに、それを人は“責務”と呼ぶのだ」

「…………?」


 何の話をしているのだろう。リムにはさっぱりわからないが。

 と、その男性がこちらに気づいたらしい。一瞬だけきょとんと眼を丸くした後、彼はムジカに視線を戻して言った。


「伝えるべきは伝えた。また後で会おう――すっぽかすなよ」

「この状況ですっぽかすかよ。後で行く。じゃあな」


 話はそこで終わりだったらしい。余韻もなく去っていく男をしばし、ムジカの背中を見ながら見送ったが。

 それからほどなくして、ムジカは振り向きもせずに言ってきた。


「よお、寝坊助。今日はずいぶんと遅かったな?」

「な、ちょ――!」


 思わず叫んでしまってから。

 あっ、と思った。

 地に足がついたような、そんな感覚。

 いるべき場所を得たような、不思議な――だが確かな充足感に、リムは思わず呼吸を止めた。

 振り向くムジカは、そんなこちらの想いに気づいた様子もなく笑っていたが。


「そうだったか? 俺が起きるのは今よか早いだろ?」

「……それは、いつもあーしが起こしてるからっす。アニキは起こさなかったら、いつまでも寝てるじゃないっすか」

「起きなきゃいけないときは起きてるだろ。たまにはゆっくり寝かせてくれてもいいと思うんだけどな」

「アニキの場合、一回許すと一気にダメになるじゃないっすか。たまにじゃなくなるからダメっすよ」


 いつものように、唇を尖らせてから。

 思わず泣きだしそうになるのを、リムは堪えた。この“いつも”の愛おしさに、胸が詰まりそうになる。だが――あるいはだからこそ、泣いてはならない。

 胸の内から溢れそうになるものをごまかすように、リムは呟いた。


「……さっきの人は?」

「ん? 警護隊の副長。連絡事項があるからって朝押しかけてきてな」

「連絡事項?」

「大まかには二つだな」


 玄関を閉めて戻ってきながら、ムジカが言う。


「まず一個目は昨日の件だ。事情聴取するから、午後出頭しろってさ」

「……昨日の誘拐騒動っすか?」

「ああ。一応昨日は簡単に説明しといたが、もうちょい詳しく聞かせろってさ。お前寝てたし」


 結局、リムには何が何だかよくわからない事件だった。

 リムが知っているのは、敵がどこぞの傭兵団だったらしいということと、それがムジカを殺そうとしていたこと、そしてそのために自分が攫われたということ。それだけだ。

 事件そのものについて話せることなど何もないし、あの時下した決断のことは、誰にも話したくない――……

 暗い気持ちにさせる嫌な記憶の中で。ふとリムはその声を聞いた気がした。


 ――私はあなたが羨ましい。


(…………)


 わからないといえば、生徒会長もよくわからないままだ。

 元はと言えば、リムにとってはあの人が原因だ。仕事だと言ってリムを連れ出し、有無を言わさず巻き込んだ。説明もなく道連れにされ、そしてあの決断をした。

 そして、彼女に助けられた――まあマッチポンプや狂言の類と感じなくもないが。

 だから、と言うわけでもないが。あの人とはどこかで一度、しっかり話をしなければならないと感じていた。

 だけど、今は……と、リムは隣にいるムジカを見やった。


「それはまあ、いいっすけど。じゃあ、もう一個は?」

「入隊テストの結果だとさ」

「入隊テスト? って……」


 言われて少し、ぽかんとして。

 そういえば、そんなこともしてたんだったと思い出した。それ自体は昨日のことだったはずなのに、なんだか遠い昔のことのように思える。


「セシリアは元々誘われてたしな。実力も問題なしってことで、合格だそうだ。アーシャは実力はちょいと足りてないが、情勢が情勢だし心意気は買うってことで、半分合格扱い。補欠の訓練生として警護隊預かりになるんだとさ」

「ああ、アーシャさんも警護隊入りできたんすね」

「らしいよ。ま、落ち着くところに落ち着いたんじゃないか?」


 セシリアはともかくほとんど素人だったアーシャの隊員入りは意外なような気もしたが。

 リムはふと気づいて訊いた。


「……アニキは?」

「俺?」


 入隊テストと言うのであれば。二人が合格になったのなら、チームを組んでいたムジカにも話があったはずだ。

 不思議そうな顔をしたムジカを、リムはまっすぐに見つめた。


 周辺空域警護隊の仲間入りとなれば、それは実質的にノーブルの仲間入りと同義だ――この前のレティシアからの誘いに、ムジカの心が揺れていたことをリムは知っていた。

 子供の頃、彼がノーブルに憧れていたことを知っていたから。だから彼がその誘いを断った後、リムはムジカに「受けちゃえばよかったのに」と言った。


 だがその時のリムの心境は、実際のところ複雑だった。

 憧れを叶えられたのに、という想いと、それを彼が選ばなかったことへの安堵と――そして彼の選択に安堵してしまった、自分自身への嫌悪感。それがごちゃ混ぜになって、うまく表情を作れなかった。

 苦い記憶だ。今もそれと同じものを胸に抱えて。だがそれを表情にしないよう苦心しながら、彼の言葉を待つ――

 ムジカの答えは、どこかすっきりしたような苦笑だった。


「断ったよ。お前はどうする? って誘われはしたけどな」

「……断った?」

「ガラじゃねえからな」


 それはあの日、レティシアの誘いを断ったのと同じ理由だった。

 そして言い訳のように付け足してくる。


「ま、有事の際には傭兵としてなら協力するとは言ったけどな。あっちもあっちで、『ならお前に頼ることがないよう、精進するさ』とさ。まあ、元々警護隊入りはセシリアの希望だ。仕事ならともかく、やらんでいいなら俺はやらんよ。そいつは俺の役目じゃない」

「……そうっすか」


 それに対して、自分は何を思えばいいのか――そして、何を思うのか。

 そんなことさえわからずうつむいていると、不意にムジカがリムの頭に手を置いた。

 わっと驚くが、そんなこちらを無視して乱暴に撫でまわしながら言ってくる。


「ま、そんなこたどうだっていいさ。それより朝飯にしようぜ。いい加減腹減ったよ」

「え? あ! でもあーし、何も作ってない――」

「知ってるよ。だから今日は、俺が作った」

「……え?」


 思わずきょとんとしてから。手を放して先に行くムジカをリムは慌てて追いかけた。

 リビングには確かに、朝食が用意してあった。リムのほうには、フレンチトースト。普段の朝はシュガートーストを作ることが多いが、時間がある時や余裕がある時はちょっと奮発することもある。フレンチトーストはそんなときのメニューだ。

 そしてムジカのほうには――少し焦げた、フレンチトースト。

 既に冷めてしまっているのか、湯気はもう立っていない――


(……え?)


 ムジカは朝、あまり甘いものを食べたがらない。朝にはほぼ必ず甘いものを食べるリムのことを、実は白い目で見ていることをリムは知っていた。

 だからリムは彼の朝食には、そうしたものを絶対に出さないようにしてきた。

 それがどうして? とムジカを見やると、彼はそっぽを向いて気恥ずかしそうに、


「……たまには、食いたくなる時もある。別にいいだろ」

「…………」


 嘘だとすぐに分かった。

 だけど、リムは何も言わなかった。

 わかってしまったからだ。今日だけ目覚ましが鳴らなかった理由。彼がこれを準備するためだ。そのためにこっそり目覚ましをオフにした。そして焦げたフレンチトーストは、出来の悪いものをリムに渡したくなかったから。


 昨日の騒ぎで疲れ果ててしまったリムの代わりに、彼が朝食を作ってくれた。

 それはきっと、ささやかなことだ。朝食ならリムも毎日作っている。だからこれは、本当にささやかなことなのだ。

 だがそれでも少し、鼻の奥がツンとした。

 それがもっと、別の何かを呼びそうな気がして。慌ててリムはムジカに言った。


「か、顔。顔、先に洗ってくるっす」

「ん? ああ、そういや寝起きか。つっても別にいいんじゃないか? 俺は気にしな――」

「行ってくるっす!」


 有無を言わさずそう言うと、リムはその場を飛び出した。

 何か、などとごまかす必要はない。堪えていたのは涙だ。我慢できそうになくて、洗面所に急ぐ。

 そして胸の内で、呪文のようにつぶやいた――泣いてはならない。彼に涙を見せたくはない。困らせたくない――この人の、重荷になりたくない。

 だから、涙を見せてはならない。

 だけど。


(――嬉しかった)


 彼が自分のことを気遣ってくれた、その温かさに。

 改めて、帰ってきたのだと実感した。

 自分の居場所に――彼のいる場所に。もう戻れないと覚悟した、この人の隣に。

 それが何よりも、嬉しかったから。


(ありがとうって、言わなきゃ。昨日は――。今度は、しっかり――)


 だからもう少しの間だけ、リムは素直に涙を流した。

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