第40話

 夜中に真鈴から電話があった日の翌日は、急きょ北前京子と食事をすることになった。 食事と言っても勿論酒を飲むわけだ。


 この日の午前中に今月いっぱいで仕事を辞めたい旨を伝えると、最初はなぜ急にと問い詰めてきたが、事情を説明すると納得し、手続きの書類を渡したいからとその日の夜会うことになった。


 彼女が勤める派遣会社は大手町にあるので、仕事のあと立ち寄ってもよかったのだが、外で会うことが私と京子とのイレギュラーな関係をある意味表わしていたと言っても過言ではない。


 三月に東京の仕事で出張に来た際、依頼人の夫を尾行中に日比谷公園のベンチに忘れてしまったショルダーバッグを京子が拾ってくれて、すぐ近くの交番に届けてくれたことが知り合ったきっかけである。


 大阪に帰ってからお礼に送った「たこ焼きクッキー」が気に入ったと言い、偶然にもそのあと新宿のN社から調査の依頼があって、そのクッキーを買って再び東京へ、そして想定外の夜の出来事があった。

 今思い起こすと、誰にも話せないほど可笑しな出来事であった。


「大阪に帰ってまた探偵に戻るのね?」


「ごめんね、仕方がないんだ。これまで世話になってきたT社が忙しくて大変だっていうものだから、前みたいに全国を飛びまわることになるかも知れない」


 私は真鈴のことが理由で戻るとは言えなかった。

 もちろん京子は真鈴のことなど知らないのだが、何となく京子に気遣いをした。


「お父さんの住所が知りたかったら調べるよ」


「ううん、今はまだいいの。どうしても知りたくなったらお願いする」


 新橋のモツ焼き屋で飲んだあと、いつものアイリッシュパブでベルギービールを飲んだ。

 京子と飲むときはアイリッシュパブがセットだなと思った。


「大阪に行く機会があったら連絡するね」


「いつでも待ってるよ。お母さんの恋人の件でどうしても嫌だったら、いつでも電話やメールをしてくれたらいいからね」


 京子は私の言葉をしばらく考えていたようだが、「分かりました」と何かを決心したような表情で言い、グラスに残ったビールを飲み干した。


 京子と別れて御成門駅に戻る途中、真鈴に電話をかけた。

 彼女はスマホを握って電話を待っていたかのように一秒で出た。


「今月末で仕事を辞める手続きをしたよ。九月の第一週には帰るから」


「ありがと。すぐに住むところが決まらなかったら、私のところに来たらいいよ。部屋が三つもあるんだから」


 急きょの帰阪だから、しばらく真鈴の家に世話になるのもいいかなと思ったが、「いや、取り急ぎ大阪のゲストハウスを捜してみるよ」と返事した。


「何だよ、肝心なときによそよそしいんだから」


 真鈴は不満そうに言ったが、親のいない家に住みつくわけにはいかない。「部屋が見つからなかったら、そのときは頼むよ」と言って電話を切った。


 ともかくこの日は急な退職手続きを終えたことと、真鈴との昨日の約束を伝えたことでホッとして、御成門駅に降りていった。



 八月末で仕事を終了した。

 僅か三か月間だったが、最後の日に同じチームの数人が小さなお別れ飲み会をやってくれた。


 それほど親しい関係になったスタッフはいなかったが、「また東京に来たときはここに来てくださいよ。待ってます」と一様に言う。

 社交辞令であったとしても嬉しいことだと思った。


 人はひとりで生きているわけではない。

 様々な社会の歯車のひとつに自分が関わって、小さくともそれを動かしていることに間違いはない。


 ゲストハウスを退去するとき、「織」のつく名前の四人が最後にお別れパーティーをリビングで開いてくれた。

 

 香織に沙織に詩織に、そして新しく入って来た衣織・・・何かに仕組まれたとしか考えられないと言うより、もはや笑うしかなかった。


 彼女たちの手作りの料理が振舞われ、別れを惜しみながらも楽しい一夜だった。

 あらかじめ荷物は真鈴の家に宅配便で送っておいたので、お別れパーティーの翌朝、私は皆がまだ寝静まっているころを見計らって、そっとゲストハウスに別れを告げた。


 音を立てないように注意深く玄関で靴を履いているとき、詩織が部屋から出てきた。


「岡田さん、行ってしまうんですね」


「どうしたの、こんなに朝早く。また眠れないのか?」


「いいえ、そんなんじゃないんです。岡田さん、私、ときどき岡田さんに会いに大阪に行ってもいいですか?」


 詩織はメガネの縁に手を当てないで涙声で言った。


「いいに決まっている」


 私は靴を履いてから詩織を抱き寄せた。


「しっかりしないとだめだぞ。これまでの痛みなんて、すぐに取り戻せるんだからな。

 世の中は辛いことがたくさんあるけど、投げやりになっちゃいけない。何か困ったことがあったら、遠慮なんかしないで連絡して来るんだよ。分かったね」


「分かりました」


 私は痣や染みひとつない詩織の綺麗な首筋に軽くキスをして、それからドアを開けて外に出た。


 突如、私は猛烈な切なさに襲われた。

 でも新たな場所へ向かうときも、元の場所へ戻るときも、今居る場所から出るときに、人はいつも寂しさに襲われるものなのだ。


 私は自分にそう言い聞かせて寂しさと切なさに耐えた。

 大阪へ向かった。

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