第39話

 世の中はお盆休みが過ぎて、人々の多くは普段の歯車のひとつに戻っていた。


 たが、ゲストハウスのルームメイトたちはお盆だからと言って故郷に帰る者はいなかった。

 それは、皆それぞれに堂々と帰省に踏み切れない事情があることを物語っていた。


 そして、綾香は帰って来なかった。


 数日前に綾香の部屋を管理会社の男性がふたり訪れ、荷物を運び出していく様子を私と沙織と詩織が見守った。


 綾香の荷物はわずかダンボール箱三個に過ぎず、偶然にも私がこのゲストハウスに入居したときのダンボール箱の数と同じだった。


 ダンボールの行方は知る由もないが、彼女の小物など不要物はすべて廃棄された。

 おそらく綾香から管理会社に連絡が入ったのだろうと推測され、結局彼女は田舎に帰ったのか、或いは本当に良い男が出来たのか、実のところは分からずじまいだった。


 香織は熊の医師と交際が続いているようで、休日はまる一日出かけている様子だったし、鼻歌混じりにキッチンで料理をする姿をときどき見かけ、幸せに向かって突き進んでいることは推測に難くなかった。


 詩織は最近生き生きとした表情で働いていた。

 大阪の岡本氏の尽力によって社会保険の手続きが完了し、こころがずいぶんと落ち着いた様子だった。


 両親や田舎からの呪縛を解き放って、詩織はもっと自分のことだけを考えて幸せをつかむべきだと私は思った。


 沙織は相変わらずときどきリビングのテーブルに頬杖をついて深いため息を吐いていた。

 彼女だけにはまだ幸せのランプが灯っていないようだった。



 仕事帰りに芝公園を横切ったりすると、夜風が明らかに夏のものとは違っていて、首筋にひんやりと心地良く感じる季節になっていた。

 東京タワーのイルミネーションさえも夏の終わりを告げているように思えた。


 そんなふうに季節の移り変わりを感じ始めたころ、休日にリビングでビールを飲みながらテレビを観ていると、管理会社の男性が若い女の子を連れて入って来た。

 彼は私がこのゲストハウスに入居する際に立ち会ったスタッフだった。


 彼は私に軽く挨拶をしたあと、退去した綾香の部屋を女の子に案内して、それからリビングやキッチン、バスルームなどを見せたあと、彼女に私を紹介した。


「岡田様はただひとりだけの男性のルームメイトですが、良識のあるご安心できる方で、全くご心配はありません。ただ、岡田様は近々退去されます」


 管理スタッフは私をそう評して彼女に説明した。


「横田衣織といいます。よろしくお願いします」


 まだ二十歳くらいにしか見えない彼女は、世慣れたおとなのように丁寧に挨拶をした。


「どうも、岡田です。せっかくルームメイトになれるのに、僕は来月早々に出て行くんですよ。でもここは良い人ばかりだから安心して」


「はい、ホッとしました。ありがとうございます」


 それから彼女はスタッフと一緒に出て行った。

 香織に沙織に詩織、そして今度は衣織だ。


「マジかよ・・・」


 私は声に出して呟いた。何だっていうんだ、いったい。


 まるで何かに仕組まれたようなこの三か月あまりのゲストハウス暮らしだと思った。

 短い期間だったが、思えばかなり濃密な日々だった。


 出来ることなら、いましばらくこのゲストハウスで暮らして、ルームメイトたちがみんなリセットをして出て行くのを見送りたいと思ったりもした。


 だが、先日の真鈴からの電話で、私は急きょ大阪に帰ることを決めていた。お盆が過ぎて数日が経ったある夜のことであった。


「光一、大阪に帰って来て!私、ちょっと耐えられないの」


 スマホを手にとって耳にあてる途中で真鈴は叫ぶように言った。


「どうしたんだ、いったい?」


「お父さんがまた出て行ったの。お母さんも少し前にいなくなった」


「何があったの?」


「ともかく、すぐに帰って来て。お願いだから」


 真鈴はその言葉のあと嗚咽しはじめた。いったい何があったというのだ。


「事情を話してくれないと分からないじゃないか。泣きやんでから、ゆっくりでいいから」


「うん」


 涙を拭く摩擦音が聞こえて、それから少しして真鈴は話しはじめた。

 だが、彼女の説明を聞いても私はそれほど驚かなかった。


 もしかすれば沢井圭一がまた家を出て行ってしまうことがあるかも知れないと、彼が六年余りの失踪から真鈴のもとに戻ってきたときに思ったことがある。


 再び真鈴の前から姿を消す理由については、今は忘れてしまったが、そのときは漠然と思ったわけではない。


 真鈴の話によると、最初に家を出て行ったのは母の方だと言う。

 理由は以前から信仰していた新興宗教団体へ出家である。


 真鈴の話によると、父が帰って来てからも母は何度も出家したがっていたらしいが、そのたびに父が説得して家庭にとどまっていたとのことだ。


「夫婦仲は悪くなかったのよ。て言うか、お父さんがお母さんを自由にさせていたの。

 だから、失踪していた後ろめたさもあって、お父さんが帰って来てからも、お母さんは一か月のうち十日くらいはその宗教団体に泊まっていたのよ。光一には言わなかったけど」


 真鈴は説明した。


「それでお父さんはなぜ家を出て行ったんだ?」


「もう真鈴も一人前のおとなだし、ひとりでも大丈夫だろうって言うの。今度は失踪じゃないのよ。住む場所も教えてくれたし、いつでも連絡は出来るんだけど、私、光一が遠くに住んでいるのが寂しいし不安なの。近くにいて欲しいのよ。帰って来て、お願い」


 その日の夜は「一晩考えるから返事は待ってくれ」と私は言った。

 寂しかったらいつでもメッセージを送ってくれていいし、死にそうだったら電話をかけて来いと言うと、真鈴は「分かった」と意外に素直に従って電話を切った。


 そしてその翌日、私は派遣会社の北前京子に連絡をして、急な事情で大阪に帰らなければいけなくなった旨を伝えた。


 カード会社への派遣契約が三か月だったので、ちょうど契約満了となる月である。


 クライアントの方は契約更新を求めていたようだが、京子に説明をして終了手続きをとってもらうことにした。 

 そういった経緯で、私は九月初旬に大阪に帰ることを決めたのであった。

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