第38話

 コールセンターはお盆など全く関係がない。

 多くの企業が数日間の休みに入っても、ライフラインに関わる産業や社会の現業に従事する人々は休みではない。


 クレジットカード会社のカスタマセンターも普段と変わらず業務を行い、相変わらず電話に応対した顧客に対して丁寧な言葉で「金を払え!」と脅す。


 客の方は素直に「分かった」という返事が殆どだが、中には「ちょっと待ってくれ」と我がままを言う客もいて、そんなときは支払いの約束を取り付ける。


 そして約束の日に入金がないと、次の担当部署にまわるというシステムで、要するに私が行っている督促部署は初期の対応を行っているわけである。


 世間がお盆休みに突入しようとしていたが、そんな季節の移り変わりとは無関係に、つまらない仕事と何の変哲もない日常が消化されていった。



 八月半ばのある日曜日、武蔵小杉まで靴を買いに行ってからゲストハウスに戻ると、沙織と詩織がキッチンにいて、ふたりともダスターを手に持って大型冷蔵庫の中を整理したり、キッチンの流しのあたりを拭き掃除していた。


「どうしたの?」


「ああ、お帰りなさい。彩ちゃんのものを整理しているの。でもほとんど捨てないといけないのよ」


 困った顔をして沙織が言った。


 綾香は結局二週間経っても帰って来なかった。

 沙織がゲストハウスの管理会社に確認したが、特に何も連絡はないとのことだったらしい。


「二週間くらいは普通に留守にするんじゃないかな」


 私は無責任なことを言った。


「そんなことないよ。お味噌汁をお鍋にたくさん作って冷蔵庫に入れていたんだから、留守にする予定なんかなかったはずだよ。何かあったんだよ、きっと」


「そうですよね、帰って来られない何かが彩ちゃんの身に起こったか、急に実家に帰らないといけない連絡があったか、どちらかではないですか?」


 沙織と詩織が交互に私の言葉を否定した。


 確かに何かが起こったに違いなかった。

 でもその「何か」は若い女性なら様々考えられることで、他人のわれわれが心配したって始まらない。


「渋谷か池袋あたりで、いい男にでも拾われたんじゃないか?」


 私は部屋に鞄を置いて、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。


「酷いことを言うね、岡田さんって」


「信じられない言葉です」


 再びふたりが交互に私の言葉を非難した。


 私は「ごめん」と一応謝ったものの、本当にどこかで良い男にでも声をかけられて、そのままついて行ってしまったのではないかと思った。

 綾香にはそういう危なっかしい雰囲気があった。



 それから私たちは散歩に出た。

 詩織が夕涼みに多摩川を散歩しようと言い出したからだった。


 休日には普段あまり部屋から出ない沙織が、意外にも「行こう行こう」と同意した。

 私は自分よりずっと若い女性ふたりに挟まれて、多摩川の土手から降りて河川敷の遊歩道を歩いた。


 日曜日の河川敷は幸せな人々で溢れていた。

 離婚問題で悩んでいる人や、夫や家族の暴力から逃げて姿を隠している人たちなんてそこには存在しなかったし、突然ゲストハウスに戻らなくなる女の子もいなかった。


 幸せな日常が繰り返されるのを当然のように思っている笑顔の人たちばかりが河川敷にいた。

 今の幸せな状態がもしかすれば脆弱なものかもしれないと、緊張感とともに噛みしめるように生きている人々の姿はなく、皆が皆リラックスした幸せな表情で動いていた。


 東急線の鉄橋のガード下では何組かの若者たちが歓声を上げながらバーベキューを楽しんでいた。

 河川敷のゴルフコースでは本日の予定をほぼ終了したゴルファーたちが、パーティーが終わったあとの満足感を顔に表しながら帰り支度を始めていた。


 遊歩道をジョギングする男女がときどき私たちを追い越した。

 夏が終わりに近づいている多摩川の河川敷には、私や沙織や詩織、そして大阪の真鈴や浅草の北前京子とは人生の種類が異なっている幸せな人たちで溢れているように思えた。


「いつまでもゲストハウスに住んでいるわけにはいかないな」


 私は河川敷の人々を眺めながらポツンと言った。


「そうだね」と沙織が言った。


 沙織が同意したことは意外だった。


「ゲストハウスに住んでいて何が悪いの?」と反論を期待していたのにいったいどうしたのだ。


 香織が熊の医者と交際を始めたことや、突然綾香が帰ってこなくなったことが、彼女のこころに何か変化を与えたのかも知れないと私は思った。

 みんな早くここを出て、幸せに向かって突き進むべきなのだ。


「今夜久しぶりに焼肉パーティしようか?」


 珍しく沙織が提案した。この日の沙織は意外な言葉の連続だった。


「いいですね」と詩織も同意した。


「じゃあ、駅前のスーパーで買い物して帰ろうか」


 土手の上から、ちょうど武蔵小杉駅の高層マンションの向こう側に沈みかけている鮮やかなオレンジ色の夕陽を眺めた。


 表現する言葉がすぐに思い浮かばないほどの綺麗な夕陽で、こんな美しい夕陽を天国の有希子も眺めることがあるのだろうかと、何ともいえない切ない気持ちが私のこころに広がっていった。


「ちょっと待って」


 私はふたりに土手の下で待ってくれるように言った。

 それから多摩川の河口方面に見える銀色の川とオレンジ色の空とが接しているあたりを向き、膝を折って手を胸の前で合わせた。


「有希子、どうか僕を許してくれ。できるだけ早くそっちへ行くから、待っていてくれ」


 そう祈ってから、私はゆっくり土手を降りた。


「何していたの、岡田さん」


 沙織が不思議そうな顔をして訊いた。


「夕陽が綺麗だろ」


「えっ?」


「ほら、あの夕陽だよ。すごく綺麗と思わないかな」


「そうね」


「ねえ、沙織ちゃん」


「なに?」


「人って綺麗な夕陽を見ると、何で感動するんだろうね?」


「ええっ?岡田さんが分からないことは、私にだって分からないよ」


 沙織は笑い、詩織も「そうよ、岡田さんが分からないことは私たちには分からないよね」と、相変わらず右手をメガネの縁にあてて言った。


 それから私は再び沙織と詩織に挟まれながら線路沿いを駅前の方向へ歩いた。

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