第37話

 大阪から戻った翌日の日曜日、私は昨日新幹線に乗ってからの激しい疲労感が一向に取れずに、朝も昼も何も食べずにひたすらベッドでダラダラと寝続けた。


 通りすがっただけのような日帰りの大阪だったが、亡き有希子の納骨堂を訪ねてつかの間の再会ができた。


 そして詩織の未来への明かりを灯すための手続きも無事に終わった。

 それらへの安堵感からか、私にしては珍しく疲れがなかなか取れなかった。


 夕方になってようやくベッドから起きてリビングに出てみると、日曜日なのに珍しく沙織がいた。


「沙織ちゃん、今から仕事なの?」


「違うの、今日はお休みをもらったの」


「そうなんだ」


 沙織はキッチンの流しで手鍋をゴシゴシと洗っていた。


「彩ちゃん、ずっと帰って来ないのよ」


「えっ?」


「この小さな鍋にお味噌汁を作って冷蔵庫に入れたままで、もう十日以上経つんだよ。冷蔵庫を開けるとすごい臭いがしてきて吐きそうになるの。仕方がないから全部捨てたのよ。岡田さん気づかなかった?」


「冷蔵庫は滅多に開けないから」


「そうよね、もう彩ちゃんったら、最低だわ」


 沙織はかなり怒った表情で鍋を念入りにこすりながら言った。


「他にもね、卵十個入りパックが半分ほど残っているし、ハムと明太子、それから納豆のパックとヨーグルトも、ほとんどが消費期限切れなのよ。頭にきちゃう」


「彩ちゃん、どうしたのかな。もうすぐお盆だから、もしかして早めに帰省したのかも知れないしね」


「ともかく、あと一週間だけ様子を見るわ。それでも帰ってこなかったら、冷蔵庫にある彩ちゃんのものは全部捨てるんだ。

 他のものまで悪くなってしまうんだからね。本当にあの子、何考えてんだろ」


 沙織はパンパカパーンと宣言するような口調で憤慨した。


 私は熱いインスタントコーヒーを淹れてリビングの椅子に座った。

 香織は仕事に出ているようだったが、詩織は部屋にいるのかどうか分からなかった。


「それより香織さんがこの前言っていた熊のようなお医者さん、その後どうなったの?」


 沙織はようやく洗い終えた鍋を水切りかごに置いてリビングの椅子に座り、「フー」と小さくため息をついた。

 私は食器棚から彼女のマグカップを取り出してコーヒーを淹れてやった。


「ありがとう。ちょっと疲れた」


 沙織はマグカップを両手で持ち、フーと冷ましながらひと口啜った。


 沙織も正面からよく見ると可愛い顔をしていた。


 悪戯好きな少年のようなあどけなさが残っている卵形の顔はオカッパ頭で覆われているが、髪型に気を遣ったり、もう少し化粧をするだけで、きっと見違えるくらい綺麗になるのじゃないかと私は思った。


「どうしたの、私の顔をじっと見て」


「いや、沙織ちゃんって、よく見ると可愛い顔をしているね」


「よく見ないと可愛くないの?」


 フンという感じで沙織は言った。


 彼女が夫から何度もDVを受けて逃げ出したとは思えなかった。

 いったい彼女のどこを夫は気に入らなかったのだろう。


 ひと仕事を終えてホッとした表情でコーヒーを飲んでいる沙織を見て、世の中とは、とりわけ男女関係とは摩訶不思議なものだと思った。


「香織さんはこの前言っていた熊のお医者さんと付き合うんだって。初めて会った日の翌週に熊さんのお母さんと三人で食事をして、その何日かあとにふたりだけでデートしたみたいだよ」


「そうなんだ。それは良かったね」


 沙織はそのあとも黙ってコーヒーを飲んでいた。


 ゲストハウスで同じ屋根の下に暮らしていたって、おそらく沙織は寂しいに違いないのだ。

 誰か彼女を守ってくれる男性が現れればいいのだが、生きるということや恋をするということは、そんな単純なものではないから始末が悪い。


 キッチンの窓の向こうに沈みゆくオレンジ色の夕陽が、沈黙が流れるリビングのテーブルを照らした。


 大阪を出て三か月ほどがあっという間に過ぎた。

 真鈴はその間、電話もかけてこないしメッセージさえ送ってこない。


 ふたりの気持ちを確かめる意味もからも、彼女が大学を卒業するまでは会わずにいようと最初は提案したが、そんなことは無理に決まっている。


 一年後でも二年後でも、どちらかが限界になったときは我慢せずに連絡しようと約束していた。

 だがこの三か月あまり、何事もなかったかのように月日が過ぎた。


 もし真鈴から「限界だよ。会いたい」と連絡がきたとすれば、私は躊躇なく大阪へ帰って彼女と本当の恋愛関係に突き進もうと考えている。


 そして亡き有希子の納骨堂にも、春夏秋冬には必ず訪れて、季節の移り変わりの報告とふたりの間に命をもうけてやれなかったことを詫び続けようと思う。


 目の前の寂しそうな表情でコーヒーを飲んでいる沙織を見て、私はそんなふうに思いを巡らすのであった。

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