第36話
大阪への一日だけの帰省は、帰省なんていう言葉は全く当てはまらず、亡き妻の有希子に会いに行った以外は、街角を掠めて歩いただけに終わった。
新幹線の中、詩織は不安そうな表情で窓の外の景色を眺め続けていて、心配しなくても大丈夫だと私が繰り返し言っても落ち着かない様子だった。
新大阪駅まで迎えに来てくれた岡本氏と駅ビルの喫茶店に入り、詩織と顔合わせを行った。
彼に相談を持ち込むのは債務に追われるくたびれた中年以上の男女や、何かから逃げ続けている人生の歪んだ年輪を抱えた者が多いのだが、若くて一見知的な詩織を見た岡本氏は、意外な相談者に驚きの表情を隠さなかった。
「こんな綺麗なお嬢さんに、いったいどういうご事情がおありなんですかな?」
「岡本さん、いろいろと相談に乗ってやってください。私は二、三時間私用がありますから、彼女を住民登録していただくアパートに案内して、そのあと必要な手続きをしていただけますか」
「心配おまへんでお嬢さん、ワシに任せておくんなはれ。キチンと住民登録して公的書類が発行できるようにしてあげますさかいにな。
いろいろと嫌なこともあったやろうけど、登録したアパートに変な奴が来よったら、ワシが蹴散らしてやりまっさかいにな。安心しなはれ」
詩織は最初、見るからにヤクザ丸出しの岡本氏の怖そうな風貌に瞳をクルクル回して驚いていたが、彼の気さくな口調や冗談などにホッとした様子だった。
「よろしくお願いします」
詩織はいつもの癖で、右手で片方のメガネの縁を持ちながら軽く頭を下げた。
「任しときなはれ。もう安心でっせ、何の心配もおまへん」
岡本氏は表情を崩し、目尻を下げながら言った。
喫茶店を出て詩織は岡本氏の車に乗り込み、三時間後に再び新大阪駅で会う約束を交わし、そこで一旦別れた。
住民登録をするアパートに彼が詩織を連れて行っている間に、私は亡き妻の有希子の墓参りに訪れるつもりをしていた。
地下鉄御堂筋線で難波まで出、そこで近鉄奈良線に乗り換えて奈良県生駒市へ向かった。
二月二十五日の有希子の四十九日の法要で、生駒市内にある鈴木家の菩提寺を訪れて以来である。
寺は生駒駅から南西方向へ歩き、滝寺公園を越えたあたりに所在しており、私はゆっくりと歩いて向かった。
一月に亡くなってしまった有希子、半年余りも寂しい思いをさせてしまったが、寺までの道すがら、ふたりの新婚時代のことなどを思い起こした。
有希子はいつも私のすることを不思議がった。
金融会社のサラリーマン時代は、平日は上司に飲みに誘われることが多く、酔っぱらって夜遅くに帰ると、「何で断らないの?私たちまだ新婚なのに」と私を責めた。
休日に「京都のお寺でも行こうか、それとも遊園地で遊ぼうか?」などと提案しても、休みの日はふたりでのんびり過ごしたいと言い、一日中お菓子を食べながらテレビを観るだけで満足していた有希子。
ふたりでいる時間を最も大切に思ってくれていたのに、金融業で独立すると、私は毎日のように日が替わってしまう時刻まで飲んで、倒れ込むように帰宅した。
でも有希子は決してふたりの生活に不満を言わなかった。
ふたりでいる時間があるだけで楽しんでいるようだった。
そんなことを思い出していると寺に着いた。
納骨堂の有希子が納められているスペースを開けると、まだ瑞々しい花が活けられていた。
元義父母がときどき訪れているのだろう。
私は駅前の花屋で少しばかり花を買っていた。
だが、目の前に活けられている花を全部抜いて買ってきた花を挿すのには気がひけ、何本かを残して新たな花を供えた。
「有希子、許してくれよ。僕もそんなに遠くない日に君のもとに行くからな」
こころで詫びていると自然に涙があふれ出て、思わず周りに人がいないかを確認し、いないと分かるとますます涙が噴き出るように流れた。
でも、有希子はここにいないかも知れないのだ。
四十九日の法要の日、納骨堂の隣の部屋に設けられた祭壇で、僧侶の長い長い読経が続いているときに、元義父母や親戚たちの姿が一瞬私の視界から消えて有希子が姿を現し、確かに私に微笑んだ。
あのとき有希子は明らかに微笑みから屈託のない笑顔に変わった、そして建物の高い天井の上の方へ舞い上がって、そして姿を消したのだ。
私はあのときのことを鮮明に憶えている。
有希子の墓参りのあと、私はやや落ち込んだ気持ちを引きずったまま新大阪駅に戻った。
しばらくして岡本氏と詩織が現れ、彼女は私の姿を見ると「岡田さん!」と手を振りながら声をかけてきた。
詩織は大阪に着いた三時間前とは打って変わって、表情がずいぶんと明るくなっていた。
「岡田はん、彼女を現場に案内してから、必要な書類を全部いただきましたで。数日中に区役所へ提出して住民登録の手続きをしておきます。
一週間以内には区役所から完了の郵便が届きますよってに、それから委任状を持って国民年金と保険の手続きをしますわ。
そやから東京の方へ転送するのは二週間か三週間くらいあとになりますな」
岡本氏は満足そうな顔で説明した。
食事でもどうかという岡本氏の誘いを「残念ですが、急いでいますから」と丁寧に辞退し、私は詩織と午後四時半ごろの新幹線に乗り込んだ。
詩織は疲れなど見せていなかったが、私はわずかな時間だけ有希子の墓を訪れたことが逆に大きな疲れとなっていて、新横浜駅までの車中はほとんど寝てしまった。
「岡田さん、新横浜だよ」と詩織に肩を軽く叩かれて目が覚め、私たちは新横浜駅ビルのレストランフロアで食事をした。
「岡田さん、いろいろとありがとう。何かお礼をしないといけないのですけど、何がいいか思いつかなくて・・・」
詩織は食事中もメガネの縁を持ちながら言った。
彼女は緊張するとメガネの縁を持つ癖があるようだと、ようやく私は分かった。
「そんなことは気にしなくていいんだよ。それより岡本さんに毎月いくら手数料を支払うことになったのかな?」
「毎月の基本料金は一万五千円です。それに郵便物を転送してもらう送料の実費が加算されます。
一万五千円は少しきついですけど、その分頑張って働きます。本当ならもう少し費用がかかるようですけど、ちょっとだけ安くしてくれたみたいです」
詩織は微笑みながら満足そうに言った。
私にはその費用が高いのか安いのかは分からなかったが、保険や年金の手続きが出来るようになって、詩織が安心したのならそれでいいと思った。
でも私は疲労感がいつまでも残っていて、ゲストハウスに戻るとすぐにベッドに突っ伏すように寝てしまった。
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