第35話

翌日、ドアを何度もノックする音に目が覚めた。

 夢遊病者のようにベッドから出てドアを開けると詩織が立っていた。


「大丈夫ですか?すごいイビキがリビングまで聞こえていましたよ。昨日の話、覚えています?」


 詩織は昨夜と打って変わって遠慮がちに聞いてきた。


「ああ、覚えているよ。ちょっと待って、シャワーを浴びてから打ち合わせをしよう。三十分後ね」


 時刻はもう午前十時を過ぎていた。私は十時間近くも寝続けたのだ。

 途中一度も目が覚めることはなく、夢ひとつも見なかった。


 寝入ってから目が覚めるまでが五分程だったようにも思え、つまりわずか五分で貴重な人生の十時間が消え去ってしまったわけで、私はずいぶんと損をした気持ちに苛まれ、天井を仰ぎ見た。


 だが昨夜に比べると上半身と下半身をつなぐネジの本数が五本くらい増えた気がした。


 リビングで詩織と打ち合わせをした。

 ゲストハウスには綾香だけがいたが、彼女はこの時間、ちょうど睡眠の頂点にいるに違いなく、私は少しだけ声を落として大阪の知り合いに電話をかけた。


 昔、不動産担保融資の引き合いをよくまわしてやった人物で、今はあまり大きくはやっていないが、岡本商事の屋号でブローカー的な不動産業を営む傍ら、事情があって住民登録が出来ない人々の便宜を図るビジネスを数年前からはじめていた。


 顧客のほとんどは、過去に会社をつぶした人やクレジット会社などの金融業者から逃げている人、そして詩織のように居場所を知られたくない特殊な事情のある人だった。


 岡本氏はすぐに電話に出た。


「おお、岡田さんでっか、お久しぶりでんな。えっ、今東京へ出てはりまんのか?事務所を閉めはったんは風の便りで耳に入りましたけど、その後連絡がおまへんからどうしてはるのかと思うてましたんや」


「すみません、いろいろありましてね」


「まあ今度会うたときに聞かせてもらいますわ。かれこれ五、六年ぶりですかな、いやもっとですかな?」


 岡本氏から懐かしい大阪弁が聞こえてきた。


 彼の声を聞くと、街金業を営んでいたころの感覚が一気に蘇ってきた。


 岡本氏はすでに五十代後半の年齢で、今でこそたったひとりでほとんど表に出ない仕事を行っているが、景気の良いころは数百人の従業員を抱える大手不動産会社で常務取締役を務めた人物なのだ。


 リーマンショックによる世界経済の一時期の崩壊とともに彼の会社も業績が一気に悪化し、更正法も適用されずに破産となった。


 彼は立場上の責任の範囲で残務処理に追われ、数ヶ月ぶりに会ったときには恰幅の良かった体躯がずいぶんと痩せて、すっかり変わり果てていたことに驚いたことがあった。


「銀行は酷いことをしまっせ。まあ今さら銀行がやってきたいろんな悪事を言うても仕様がないから言いまへんけどな。酷いもんですわ」


 岡本氏と最後に会ったときに、銀行への憎しみを顔に表しながら悔しそうに語っていたことを思い出す。


 詩織のことを相談すると、話はトントンと具体的に進み、翌週の土曜日に彼女を連れて大阪へ行くことになった。


 新大阪駅まで岡本氏が車で迎えに来てくれるからひとりでも大丈夫だよと説明したが、詩織は私についてきて欲しいと言って引かなかった。


 しばらく考えた結果、大阪に不安を感じている詩織にひとりで行けとは言えず、岡本氏への紹介もあるので、やむなく彼女に付き添うことにした。


 私は次の土曜日、ほぼ三ヶ月ぶりに大阪に戻ることとなった。


「ごめんなさい。岡田さんの新幹線の費用は私が出します。大阪なんて行ったことがないから不安なんです。大阪の人っていつも怒っているような気がするから」


「僕の交通費は心配しなくていいよ。でもね、大阪の人間がいつも怒っているわけがないよ。大阪弁が独特だからそう感じるだけなんだ」


「岡田さんはなぜ大阪弁じゃないんですか?」


「ああ、僕の田舎は愛媛だからね。関西のイントネーションとは全然違うんだよ」


「よかった、岡田さんが大阪弁でなくて。大阪弁って、テレビのお笑い番組や街頭インタビューなんかでも、私にはいつもふざけているようにしか聞こえないんですよね」


「それは違うんだけどね・・・」


 他府県の人々からすれば、アクの強い大阪弁に当惑するのは理解できる。

 そう言えば穴吹療育園の関さんも、大阪に突然やって来て通天閣界隈を案内したときに同じようなことを言っていたことを思い出す。


 私は詩織の言葉にも苦笑いするしかなかった。


 しかし私ははまだ大阪には戻りたくなかった。

 わずか一日だけだとしても、大阪の地に再度足を踏み戻せば、亡き妻の有希子との暮らしやこれまでの仕事のこと、さらには真鈴や律子さんなど関わってきた女性たちのことが蘇ってくる。


 彼女たちはすでに新たな暮らし、新たな人生に翔び立っているのだから、しばらくは思い起こしたくはないのだ。


 特に真鈴との約束がある。

 離れて暮らしていても、お互いに忘れずに、気持ちが変わらなければもとに戻ろうという約束が。


 でもまだ早い。

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