第34話
「何よ、香織さん。元ダーのことで心配させておきながら、電話で簡単に断って、舌の根も乾かないうちにお客さんの息子さんとお見合いしただなんて、おかしいわ。
私、ルームメイトだから、香織さんが悩んでいたとき本気で彼女のことを心配していたのに・・・」
詩織は怪しい呂律で香織への不満を言った。
だが、生真面目な彼女は文句を言うときも気遣いを忘れず、香織の部屋には決して聞こえないように小さな声で呟くように言うのだった。
「詩織ちゃん、あまりいちいち真剣に考えないほうがいいよ。人のことよりも自分のことのほうが大切だ」
「じゃあ、岡田さんは私のことをどうしてくれるんですか?」
「どうするって?」
「この前、夜中にお付き合いしてもらったとき、私の住所を大阪のお知り合いの関係の場所に登録できるって言っていたでしょ。忘れてしまったんですか?」
詩織は私の顔を斜め下から睨みつけるようにして言った。
そうだった。
私は二週間前の金曜日、詩織と多摩川の土手から駅のほうへ深夜散歩をした際に、そういう話をしたことを思い出した。
このところ仕事が忙しくて毎日残業の日が続いたし、詩織に話をしたことをすっかり忘れていたのだ。
「ごめん、詩織ちゃん。君がそうしたいなら、すぐに知り合いに連絡して手配を進めるよ。そうしたいんだね?」
「いいんです、私なんか。ずっとこんなところに住んで、ずっとアルバイトみたいな仕事をして、ずっとひとりぼっちで・・・」
詩織は静かに涙を見せた。
「詩織ちゃん、泣くなよ。出来るだけ早く国民保険や年金の手続きが出来るようにしてやるよ。そしてもし診てもらいたいところがあるのなら病院へ行こう。心配するなよ」
「ごめんなさい。わたし、ちょっと情緒不安定だから」
「ゆっくり休まないといけないよ。ここは同じ屋根の下に香織さんも沙織も綾香も僕も一緒にいるんだから。
何かあれば遠慮なくドアを叩けばいいんだからな。大阪への住民登録の件は明日の昼でも話し合おう。もうふたりとも寝ているだろうから、今夜はこれくらいにしておこうよ、な」
「分かりました。ありがとう、岡田さん」
詩織は素直に頷き、少しふらつきながら椅子から立ちあがり、テーブルのグラスをキッチンの流しに置いてから、「おやすみなさい」と言い残して部屋に入った。
詩織が部屋に入ってしまうと、私は急に睡魔に襲われた。
心地よい酔いと襲ってくる睡魔に意識がぼやけながらも、私は自分が関わっている人たちの幸せを願った。
このゲストハウスの女性たちも大阪の真鈴や律子さんや穴吹療育園の関さんも、今夜も様々な苦悩をこころに抱きかかえながらつかの間の夢の中に入っていることだろう。
どうか神様、彼女たちを深遠な眠りの中に引き込んで、夜が明けるまで決して目が覚めないように見守ってやってください。
私は酔いと疲れでボロボロになったこころで祈った。
そして私自身は三秒もあれば一気に深い眠りに突入できそうなくらい疲労困憊していた。
テーブルのあと片付けも出来ないまま部屋に戻り、ベッドに突っ伏すようにして寝た。
すぐに意識は消えた。
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