第33話

 微笑む香織は年齢的なこともあるだろうが、沙織と詩織にはない表情の深味があり、やはりおとなの雰囲気をもっていた。


 きっと彼女は男性に人気があるだろうなと、私はややうつむき加減の香織の顔を見て思った。


「いいことって何があったのかな、香織さん」


「うーん、沙織ちゃんが言うほどたいしたことじゃないのよ。前からね、お店に来るおばさんが、日本酒が好きだって私が言ったら新潟の有名なお酒をくれたり、旅行に行ったらお土産を買ってきてくれたりしていたのよ。

 このお酒もそのおばさんからいただいたの。それでね、少し前にカットと毛染めに来てくれたときに、余計なおせっかい話を持って来てくれたのよ」


「余計なおせっかい話って?」


 私は食器棚から小さなグラスを取り出し、その有名なお酒を少しだけもらった。


「息子さん、すごいイケメンなんだって」


 左横から沙織が言った。


「沙織ちゃん、それは冗談だって言ってるでしょ。熊みたいな人なのよ」


 香織が沙織の言葉を打ち消し、さらに話を続けた。


「そのおばさんがね、息子さんと会ってくれないかっていきなり言うのよ。今まで息子さんの話なんて一度もしたことがなかったのに。

 今思えばそのおばさん、私のことをずっと観察していて、個人的なことも少しずつ聞き出していた感じがあったのよ」


「どんなことを聞かれたの?」


「そうね、最初は年齢を訊かれて、そのあとは独身かどうかとか、結婚したことはないのかとか、どこに住んでいるのかとかね」


「正直に答えたの?」


「もちろんよ。お得意様だから、差し障りのない範囲でね」


「興信所みたいなおばさんだな」


「そうかもね。でも悪い人じゃないみたいだから、結婚したけど子供をつくらないまま離婚して三年ほどになるって、正直に答えていたの。

 少し前に来たときは、お付き合いしている男性はいらっしゃらないのって訊くのよ。何かおかしいなって思っていたんだけどね。そしたら、金曜日に仕事が終わってから息子と会ってもらえないかっていきなり言われたの」


「金曜日って今日?」


「うん、昨日と今日は連休を取っていたから、息子さんが仕事を早めに切り上げたらしくて、夕方恵比寿のレストランで会ったの」


「へー、そんなことってあるんだね」


「うん、いきなりだから、もうビックリ」


 香織のお酒を飲むピッチが早くなった。

 新潟の銘酒らしい酒瓶から小さなグラスに沙織が酒を注いだ。


 詩織はなぜかずっと黙っていたが、突然「私にもお酒をください」と言い出した。


「息子さんは私より三歳年下なんだけど、都内の医科大学の勤務医さんらしいのね。ずっと仕事ばかりしてきたから女性と付き合ったことが一度もないんだって。信じられないけど、実際会ってみたら納得したわ」


「どういうこと?」


「熊みたいな人なんですって」


 横から詩織が言った。

 詩織は日本酒のグラスをグビッと一気飲みして「フー」と大きなため息を吐いた。


「そうなの。背が高くて太っていて、髭面でお腹が出ていて、絶対に女性にはモテないタイプ。間違いないわ」


「じゃあ、特に良い話でもないじゃないか」


「でもお金があるのよ。それにお医者様だし」


 沙織が正直な感想を述べた。沙織は目がトロンとして半ば眠っているようで、すっかり呂律も怪しくなっていた。


「すごく誠実そうなのよ。口数が少なくて、大きな身体を縮めるようにして恥ずかしそうに喋るの。女性は苦手なんだって」


 香織が言った。


「でもその先生、内科と小児科の先生なんだよ。検診で女性のおっぱいを何千個も見てきてるよ。お医者さんって変態が多いんだって」


 沙織がまた無茶苦茶なことを言った。


「沙織ちゃん、変なこと言わないで。ともかく、息子さんもおばさんも、ふたりして言うものだから、まあお付き合いしてみることにしたの」


「そうだな、香織さんは浮気性のご主人で大変な思いをしたのだから、そういう朴訥とした性格で女性にモテそうにない人のほうがいいかも知れないね。良かったじゃないか」


「ありがとう、岡田さん」


 香織は久しぶりに嬉しそうな表情を見せた。

 このゲストハウスに来て約二か月、香織が目尻を下げてこころから嬉しそうにしている顔を見たのは初めてのような気がした。


「じゃあ、明日は仕事だから寝ますね。おやすみなさい」


 そう言って香織は部屋に戻った。

 いつの間にか午後十一時半近くになっていた。

 テーブルの上には銘酒のボトルが三分の一程度と、沙織の白ワインも同じくらい残っていた。


 沙織も日曜日はいつも仕事なので「じゃあ私も寝ます。おやすみなさい」と言って部屋に入ってしまった。


 詩織は土日が休みなので部屋には戻ろうとせず、顔を赤くして酒を飲み続けていた。


「詩織ちゃん、普段飲まないんだろ?」


「でも飲めます」


 詩織は宣言するような口調で言い、何かに苛立っている表情だった。


「どうしたの?今夜はちょっと機嫌が悪そうだけど」


「そうですか、別に」


 詩織はいつものように右手の中指でメガネの縁を持ち上げながら言った。

 明らかに不機嫌だったが、何が原因かはまったく分からなかった。


 次の適切な言葉を探していたら数分間の沈黙がリビングに漂った。

 香織や詩織の部屋からは物音ひとつ、咳払いさえも聞こえてこなかった。

 詩織は日本酒のグラスを飲み干し、ボトルに手が伸びた。


「詩織ちゃん、女の子が酒瓶を持って自分でグラスに注ぐのはあまり褒めた格好じゃないな。もっと飲むなら僕がついでやるよ」


 そう言って私は詩織の腕を持った。


「いいの、自分でするから。岡田さんは残業ばかりして忙しくしていればいいのよ」


「何を言ってるんだよ、詩織ちゃん」


 私は詩織の手をゆっくりとボトルから解き、キャップを外してグラスに少しだけ注いだ。


 詩織は黙ってその様子を見ていたが、注ぎ終わるとすぐにグラスを口に持っていって一気に飲み干した。


 コトリと小さな音を立ててグラスをテーブルに置いた詩織の目には、明らかに挑戦的な気持ちが映っていた。

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