第31話
「皆さんは?」
綾香はバスタオルを巻いただけの身体を揺するようにしてバスルームから出てきて、私だけになったリビングを見て不思議そうな顔で言った。
「ああ、沙織さんは仕事の支度で、詩織さんはもう少し寝るって」
「そうなんだ・・・」
綾香はそう言って私の椅子のうしろを通って部屋に入った。
私は食器棚にある、沙織がいつも飲んでいる白ワインを取り出して、冷蔵庫に少しだけ残っていたチーズをツマミにして飲んだ。
まだボトルに半分程度残っていたが、今度新しい白ワインを買ってきて補充してやろうと思った。
キッチンの開かれた窓から見える朝の空は、どこまでも鮮やかな青一色だった。
昨夜、高層マンションのエントランスで「今夜はありがとう」とポツリと言い残してマンション内に消えた北前京子の顔が浮かんだ。
彼女はすごく寂しそうで、そして不安そうな表情にも見えた。
毎週土曜日だけ泊まりに来るという母親の恋人のことで悩んでいると言っていたが、もう彼女も二十二歳だ。どうしても嫌なら家を出ればいいのだ。
「私にもワインください」
「えっ?」
さっきまで綾香の部屋からドライヤーの音が聞こえていたのに、いつの間にかリビングに出て来ていた。
黒のキャミソールの胸元から三分の一ほどがはみ出た豊かな盛り上がりと、白っぽい短パンから覗く太ももに戸惑いながらも、私は食器棚からワイングラスを取り出して三分の一程度注いでやった。
「お疲れ様」
「ああ、お疲れ」
「美味しい、このワイン」
綾香にしては珍しく歯を見せて笑った。
「岡田さんとふたりだけでリビングで飲むのは初めてね」
「そうだったかな?」
「そうよ」
長時間のシャワーのあとだからかもしれないが、綾香の少し紅潮した顔が妙に色っぽく、ボディソープの甘い香りとともに私をドギマギさせた。
綾香はまだ二十歳そこそこなのに、この色気はいったいどこからくるのだろうと、彼女の胸元に無意識に視線が刺さってしまいながら私は思った。
私がここに入居して以来、ルームメイトたちの仕事は自然と知るようになり、香織は美容師、沙織はアロマのマッサージ師、詩織は事務の仕事と、分かるまでに大して日を要しなかったが、綾香については今も分からずじまいだ。
彼女はいつも夕方近くまで部屋にいて、ようやく午後四時を過ぎたころにシャワーを浴び、身体中から強烈な香水の匂いを漂わせて慌しく出かける。
私は土日が基本的に休みなのだが、綾香は土曜日でも日曜日でも同様のライフサイクルの様子だった。
他の三人は綾香の仕事についてあまり関心がないようだったが、話題に上ると「お水よ」と一刀のごとくに口を揃えて断言していた。
「岡田さんは朝から何をしているの?」
「何って?」
「今日は土曜日でしょ。仕事は休みじゃないの?」
「ああ、僕は今日、朝帰りなんだ」
「朝帰り?朝まで飲んでいたんですか」
「いや、飲んでたわけじゃないんだ。ちょっといろいろとあってね。終電を逃してしまって、公園で夜を明かしたんだよ」
綾香は「そうなんだ」と頷いたが、それ以上は訊いてこなかった。
「ちょっと訊いてもかまわないかな?」
「なあに?」
「綾ちゃんっていつも帰りが深夜だったり朝だったりするけど、いったいどんな仕事をしているの?」
「仕事?」
綾香はワインを味わうようにゆっくりと飲んで、それから私の顔を観察するように不思議そうな表情に変わった。
彼女の一挙手一投足がゆるやかで落ち着いていて、二十歳そこそこの年齢にもかかわらず、ふてぶてしさを感じるほど仕草が堂々としていた。
「そう、僕とは生活のリズムがほとんど正反対だから、どんな仕事をしているのかなって思ってね」
「岡田さん、私に興味があるの?」
「いや、まあ、その・・・ルームメイトだからね」
「岡田さんって優しいんだね」
「なぜ?」
綾香はワイングラスを弄びながら私の目を見て笑った。
綾香の笑顔をこんなふうに近くで見たことがこれまでなかった。
いつも不機嫌そうな表情でリビングを横切る綾香の姿や、オシャレをして香水の匂いを巻き散らかしながら、ブスッとした顔で出かける綾香しか私には印象がなかった。
今夜のようにラフ過ぎる格好で私の前に座り、口をあけて笑う綾香は初めてで、いつもは仏頂面なので気づかなかったが、よく見ると愛くるしい顔をしていた。
「だって、私がお風呂から出てきてリビングに誰もいなかったら、皆が私を避けていると思うんじゃないかって気を遣ってくれたんでしょ?」
「いや、単に向かい酒をしたかっただけだよ。今日は休みだから」
「ありがとう、岡田さん」
綾香はグラスのワインを飲み干し、「じゃあおやすみなさい」と言って部屋に戻った。
綾香の仕事については判明しなかったが、女性たちが「お水よ」と断言していたことが果たしてしてそうなのか、私は残り少なくなった白ワインを注ぎながら考えた。
さっきのあの愛くるしい笑顔と「お水」とは不似合いだと思え、今度は必ず聞き出してやろうと考えているうちに次第に睡魔に襲われ、私はようやく部屋に戻った。
その日は一日中ほぼ瀕死の状態で、オーバーな表現をするとベッドで身動きひとつしない状態で寝続けた。
最初に目が覚めると窓の外は相変わらず腹立たしいほどの好天で、二度目は窓からの西日が眩しくて目が覚め、今日一日を無駄に過ごしたことを後悔しているうちにさらに寝てしまった。
そして三度目は空腹感で目が覚め、時計を見ると午後十時を過ぎていた。
私はシャワーを浴びて、意味のない時間に髭を剃った。
北前京子はあの高層マンションの八階の自分の部屋で、今ごろ何をしているのだろうと気になった。
「こんな時間にごめん。君のことがちょっと気になったから。お父さんを捜してほしいのなら今度詳しく話を聞くから」
真夜中だがSNSで京子へメッセージを送ってみた。
探偵アニメの主人公の頭に?マークがついて考えているスタンプもそのあとで送った。
「まだ起きてますよ。明日の夜は友達とカラオケに行く予定です。心配してくれてありがとう」
一分程度で届いた返信は、私の気遣いがとりこし苦労だったみたいな肩すかしのような内容で、そのあとに送られてきたクマのスタンプは万歳をしていた。
心配するほどのことでもなかったようだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます